入れ札

作者: 菊池寛

州じょうしゅう岩鼻いわはなの代官を斬きり殺した国定忠次くにさだちゅうじ一家の者は、赤城山あかぎやまへ立て籠こもって、八州の捕方とりかたを避けていたが、其処そこも防ぎきれなくなると、忠次を初はじめ、十四五人の乾児こぶんは、辛ようやく一方の血路を、斫きり開いて、信州路へ落ちて行った。
 夜中に利根川とねがわを渡った。渋川の橋は、捕方が固めていたので、一里ばかり下流を渡った。水勢が烈はげしいため、両岸に綱を引いて渡ったが、それでも乾児の一人は、つい手を離したため流されてしまった。
 渋川から、伊香保いかほ街道に添うて、道もない裏山を、榛名はるなにかかった。一日、一晩で、やっと榛名を越えた。が、榛名を越えてしまうと、直すぐ其処に大戸おおどの御番所があった。
 信州へ出るのには、この御番所が、第一の難関であった。この関所をさえ越してしまえば、向うは信濃境しなのざかいまで、山又山が続いているだけであった。
 忠次達が、関所へかかったのは、夜の引き明けだった。わずか、五六人しか居ない役人達は、忠次達の勢いきおいに怖おそれたものか、彼等の通行を一言も咎とがめなかった。
 関所を過ぎると、さすがに皆は、ほっと安心した。本街道を避けて、裏山へかかって来るに連れて、夜がしらじらと明けて来た。丁度上州一円に、春蚕はるごが孵化かえろうとする春の終の頃であった。山上から見下すと、街道に添うた村々には、青い桑畑が、朝靄あさもやの裡うちに、何処どこまでも続いていた。
 関東縞じまの袷あわせに、鮫鞘さめざやの長脇差ながわきざしを佩さして、脚絆きゃはん草鞋わらじで、厳重な足ごしらえをした忠次は、菅すげのふき下しの笠を冠かぶって、先頭に立って、威勢よく歩いていた。小鬢こびんの所に、傷痕きずあとのある浅黒い顔が、一月に近い辛苦で、少し窶やつれが見えたため、一層凄味すごみを見せていた。乾児も、大抵同じような風体ふうていをしていた。が、忠次の外は、誰も菅笠を冠ってはいなかった。中には、片袖かたそでの半分断ちぎれかけている者や、脚絆の一方ない者や、白っぽい縞の着物に、所々血を滲にじませているものなども居た。
 街道を避けながら、しかも街道を見失わないように、彼等は山から山へと辿たどった。大戸の関から、二里ばかりも来たと思う頃、雑木の茂った小高い山の中腹に出ていた。ふと振り顧かえると、今まで見えなかった赤城が、山と山の間に、ほのかに浮び出ていた。
「赤城山も見収めだな。おい、此処ここいらで一服しようか」
 そう云いながら、忠次は足下に大きい切り株を見付けて、どっかりと、腰を降した。彼の眼は、暫しばらくの間、四十年見なれた懐なつかしい山の姿に囚とらわれていた。赤城山が利根川の谿谷けいこくへと、緩ゆるい勾配こうばいを作っている一帯の高原には、彼の故郷の国定村も、彼が売出しの当時、島村伊三郎を斬った境の町も、彼が一月前に代官を斬った岩鼻の町もあった。
 国越くにごえをしようとする忠次の心には、さすがに淡い哀愁が、感ぜられていた。が、それよりも、現在一番彼の心を苦しめていることは、乾児の始末だった。赤城へ籠った当座は、五十人に近かった乾児が、日数が経たつに連れ、二人三人潜ひそかに、山を降くだって逃げた。捕方の総攻めを喰くったときは、二十七人しか残っていなかった。それが、五六人は召捕られ、七八人は何処ともなく落ち延びて、今残っている十一人は、忠次のためには、水火をも辞さない金鉄の人々だった。国を売って、知らぬ他国へ走る以上、この先、あまりいい芽も出そうでない忠次のために、一緒に関所を破って、命を投げ出してくれた人々だった。が、代官を斬った上に、関所を破った忠次として、十人余の乾児を連れて、他国を横行することは出来なかった。人目に触れない裡に、乾児の始末を付けてしまいたかった。が、みんなと別れて、一人ぎりになってしまうことも、いろいろな点で不便だった。自分の目算通もくさんどおりに、信州追分おいわけの今井小藤太の家に、ころがり込むにしたところが、国定村の忠次とも云われた貸元が、乾児の一人も連れずに、顔を出すことは、沽券こけんにかかわることだった。手頃の乾児を二三人連れて行くとしたら、一体誰を連れて行こう。そう思うと、彼の心の裡では、直ぐその顔触かおぶれが定きまった。平生の忠次だったら、
「おい! 浅に、喜蔵に、嘉助かすけとが、俺と一緒に来るんだ! 外の野郎達は、銘々思い通りに落ちてくれ! 路用ろようの金は、分けてやるからな!」
 と、何の拘泥こだわりもなく云える筈はずだった。が、忠次は赤城に籠って以来、自分に対する乾児達の忠誠をしみじみ感じていた。鰹節かつおぶしや生米を噛かじって露命を繋つなぎ、岩窟いわやや樹の下で、雨露を凌しのいでいた幾日と云う長い間、彼等は一言も不平を滾こぼさなかった。忠次の身体からだが、赤城山中の地蔵山で、危険に瀕ひんしたとき、みんなは命を捨てて働いてくれた。平生は老ぼれて、物の役には立つまいと思われていた闇雲やみくもの忍松おしまつまでが、見事な働きをした。
 そうした乾児達の健気けなげな働きと、自分に対する心持とを見た忠次は、その中うちの二三人を引き止めて他の多くに暇をやることが、どうしても気がすすまなかった。皆一様に、自分のために、一命を捨ててかかっている人々の間に、自分が甲乙を付けることは、どうしても出来なかった。剛愎ごうふくな忠次も、打ち続く艱難かんなんで、少しは気が弱くなっている故せいもあったのだろう。別れるのなら、いっそ皆と同じように、別れようと思った。
 彼は、そう決心すると、
「おい! みんな!」と、周囲に散ちらかっている乾児達を呼んだ。烈しい叱しかり付けるような声だった。喧嘩けんかの時などにも、叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)しったする忠次の声だけは、狂奔している乾児達の耳にもよく徹した。
 草の上に、蹲うずくまったり、寝ころんだり、銘々思い思いの休息を取っていた乾児達は、忠次の一喝かつでみんな起き直った。数日来の烈しい疲労で、とろとろ眠りかけているものさえあった。
「おい! みんな」
 忠次は、改めて呼び直した。『壺皿見透つぼざらみとおし』と、若い時綽名あだなを付けられていた、忠次の大きい眼がギロリと動いた。
「みんな! 一寸ちょっと耳を貸して貰もらいてえのだが、俺おらあこれから、信州へ一人で、落ちて行こうと思うのだ。お前達めえたちを、連れて行きてえのは山々だが、お役人をたたっ斬って、天下のお関所を破った俺達が、お天道様てんとうさまの下を、十人二十人つながって歩くことは、許されねえ。もっとも、二三人は、一緒に行って貰いてえとも思うのだが、今日が日まで、同じ辛苦をしたお前達みんなの中から、汝われは行け汝は来るなと云う区別は付けたくねえのだ。連れて行くからなら、一人残らず、みんな一緒に連れて行きてえのだ。別れるからなら、恨みっこのねえように、みんな一様に別れてしまいてえのだ。さあ、ここに使い残りの金が、百五十両ばかりあらあ。みんなに、十二両ずつ、くれてやって、残ったのは俺が貰って行くんだ。銘々に、志を立てて落ちてくれ! 随分、身体からだに気を付けろ! 忠次が、何処かで捕まって、江戸送りにでもなったと聞いたら、線香の一本でも上げてくれ!」
 忠次は、元気にそう云うと、胴巻の中から、五十両包みを、三つ取り出して、熊笹くまざさの上に、ずしりと投げ出した。
 が、誰もその五十両包みに、手を出すものはなかった。みんなは、忠次の突然な申出に、どう答えていいか迷っているらしかった。一番に、乾児達の沈黙を破ったのは、大間々おおままの浅太郎だった。
「そりゃ、親方悪い了簡りょうけんだろうぜ。一体俺達が、妻子眷族けんぞくを見捨てて、此処ここまでお前さんに、従ついて来たのは、何の為だと思うのだ。みんな、お前さんの身の上を気遣きづかって、お前さんの落着くところを、見届けたいと思う一心からじゃないか。いくら、大戸の御番所を越して、もうこれから信州までは大丈夫だと云ったところで、お前さんばかりを、一人で手放すことは、出来るものじゃねえ。尤もっとも、こう物騒な野郎ばかりが、つながって歩けねえのは、道理ことわりなのだから、お前さんが、此奴こいつだと思う野郎を、名指しておくんなせえ。何も親分乾児の間で、遠慮することなんかありゃしねえ。お前さんの大事な場合だ! 恨みつらみを云うような、ケチな野郎は一人だってありゃしねえ。なあ兄弟!」
 みんなは、異口同音に、浅太郎の云い分に賛意を表した。が、そう云われてみると、忠次は尚更なおさら選みかねた。自分の大事な場所であるだけに、彼等の名前を指すことは、彼等に対する信頼の差別を、露骨に表わす事になって来る。それで、選に洩もれた連中と――内心、忠次を怨うらむかも知れない連中と――そのまま、再会の機おりも期し難く、別れてしまわねばならぬ事を考えると、忠次はどうしても、気が進まなかった。
 忠次は口を噤つぐんだまま、何とも答えなかった。親分と乾児との間に、不安な沈黙が暫らく続いた。
「ああ、いい事があらあ」釈迦しゃかの十蔵と云う未まだ二十二三の男が叫んだ。彼は忠次の盃さかずきを貰ってから未だ二年にもなっていなかった。
「籤引くじびきがいいや、みんなで籤を引いて、当った者が親分のお供をするのがいいや」
 当座の妙案なので、忠次も乾児達も、十蔵の方を一寸見た。が、嘉助という男が直ぐ反対した。
「何を云ってやがるんだい! 籤引だって! 手前の様な青二才に籤が当ってみろ、反かえって、親分の足手纒まといじゃねえか。籤引なんか、俺あ真っ平だ。こんな時に一番物を云うのは、腕っ節だ。おい親分! くだらねえ遠慮なんかしねえで、一言、嘉助ついて来いと、云っておくんなせい」
 四斗樽しとだるを両手に提げながら、足駄あしだを穿はいて歩くと云う嘉助は一行中で第一の大力だった。忠次が心の裡で選んでいる三人の中の一人だった。
「嘉助の野郎、何を大きな事を云ってやがるんだい。腕っ節ばかりで、世間は渡られねえぞ。ましてこれから、知らねえ土地を遍歴へめぐって、上州の国定忠次で御座いと云って歩くには、駈引かけひき万端ばんたんの軍師がついていねえ事には、どうにもならねえのだ。幾ら手前が、大力だからと云って、ドジ許ばかり踏んでいちゃ、旅先で、飯にはならねえぞ」
 そう云ったのは、松井田の喜蔵と云う、分別盛りの四十男だった。忠次も喜蔵の才覚と、分別とは認めていた。彼は、心の裡で喜蔵も三人の中に加えていた。
「親分、俺あお供は出来ねえかねえ。俺あ腕節うでっぷしは強くはねえ。又、喜蔵の様に軍師じゃねえ。が、お前さんの為には、一命を捨ててもいいと、心の内で、とっくに覚悟を極きめているんだ」
 闇雲やみくもの忍松が、其処まで云いかけると、乾児達は、周囲から口々に罵ののしった。
「何を云ってやがるんだい、親分の為に命を投げ出している者は、手前一人じゃねえぞ、巫山戯ふざけた事をぬかすねえ」
 そう云われると、忍松は一言もなかった。半白はんぱくの頭を、テレ隠しに掻かいていた。
 そうしているうちに、半時ばかり経った。日光山らしい方角に出た朝日が、もう余程さし登っていた。忠次は、黙々として、みんなの云う事を聴いていた。二三人連れて行くとしたら、彼は籤引では連れて行きたくなかった。やっぱり、信頼の出来る乾児を自ら選びたかった。彼は不図ふと一策を思い付いた。それは、彼が自ら選ぶ事なくして、最も優秀な乾児を選み得うる方法だった。
「お前達の様に、そうザワザワ騒いでいちゃ、何時いつが来たって、果てしがありゃしねえ。俺一人を手離すのが不安心だと云うのなら、お前達の間で入いれ札ふだをしてみちゃ、どうだい。札数の多い者から、三人だけ連れて行こうじゃねえか。こりゃ一番、怨みっこがなくって、いいだろうぜ」
 忠次の言葉が終るか終らないかに、
「そいつぁ思い付きだ」乾児のうちで一番人望のある喜蔵が賛成した。
「そいつぁ趣向だ」大間々の浅太郎も直ぐ賛成した。
 心の裡で、籤引を望んでいる者も数人あった。が、忠次の、怨みっこの無いように、しかも役に立つ乾児を、選ぼうと云う肚はらが解ると、みんなは異議なく入れ札に賛成した。
 喜蔵が矢立やたてを持っていた。忠次が懐ふところから、鼻紙の半紙を取り出した。それを喜蔵が受取ると、長脇差を抜いて、手際てぎわよくそれを小さく切り分けた。そうして、一片ひときれずつみんなに配った。
 先刻さっきからの経路を、一番厭いやな心で見ていたのは稲荷いなりの九郎助くろすけだった。彼は年輩から云っても、忠次の身内では、第一の兄分でなければならなかった。が、忠次からも、乾児からも、そのようには扱われていなかった。去年、大前田の一家と一寸した出入でいりのあった時、彼は喧嘩場から、不覚にも大前田の身内の者に、引っ担かつがれた。それ以来、彼は多年培つちかっていた自分の声望がめっきり落ちたのを知った。自分から云えば、遙はるかに後輩の浅太郎や喜蔵に段々凌しのがれて来た事を、感じていた。そればかりでなく、十年前までは、兄弟同様に賭場とばから賭場を、一緒に漂浪して歩いた忠次までが、何時となく、自分を軽かろんじている事を知った。皆は表面こそ『阿兄あにい! 阿兄!』と立てているものの、心の裡では、自分を重んじていないことが、ありありと感ぜられた。
 入れ札と云う声を聴いたとき、九郎助は悪いことになったなあと思った。今まで、表面だけはともかくも保って来た自分の位置が、露骨に崩くずされるのだと思うと、彼は厭な気がした。十一人居る乾児の中で自分に入れてくれそうな人間を考えてみた。が、それは弥助の他ほかには思い当らなかった。弥助も九郎助と同様に、古い顔であって、後輩の浅太郎や、喜蔵などが、グングン頭を擡もたげて来るのを、常から快からず思っているから、こうした場合には、きっと自分に入れてくれるだろうと思った。が、弥助だけは自分に入れてくれるとしても、弥助の一枚だけで、三人の中に這入はいることは考えられなかった。浅太郎には四枚入るだろうと思った。喜蔵に三枚入るとして、十一枚の中、後へ四枚残る。その中、自分の一枚をのけると三枚残る。もし、その中、二枚が、自分に入れられていれば、三人の中に加わることは出来るかも知れないと思った。が、弥助の他に、自分に入れてくれそうな人は、どう考えても当がなかった。ひょっとしたら、並川なみかわの才助がとも思った。あの男の若い時には、可成り世話を焼いてやった覚えがある。が、それは六七年も前のことで、今では『浅阿兄、浅阿兄』と、浅にばかりくっ付いている。そう思うと、弥助の入れてくれる一枚の他には、今一枚を得る当あては、どうにもつかなかった。乾児の中で年頭としがしらでもあり、一番兄分でもある自分が、入れ札に落ちることは――自分の信望が少しも無いことがまざまざと表われることは、もう既定の事実のように、九郎助には思われた。不愉快な寂しい感じに堪たえられなくなって来た。
 一本しか無い矢立の筆は、次から次へと廻って来た。
「おい! 阿兄! 筆をやらあ」
 ぼんやり考えていた九郎助の肩を、つつきながら横に居た弥助が、筆を渡してくれた。弥助は筆を渡すときに、九郎助の顔を見ながら、意味ありげに、ニヤリと笑った。それは、たしかに好意のある微笑だった。『お前を入れたぜ』と云うような、意味を持った微笑であるように九郎助は思った。そう思うと、九郎助は後のもう一枚が、どうしても欲しくなった。後の一枚が、自分の生死の境、栄辱の境であるように思われた。忠次に着いて行ったところで、自分の身に、いい芽が出ようとは思われなかったが、入れ札に洩れて、年甲斐としがいもなく置き捨てにされることがどうしても堪たまらなかった。浅太郎や喜蔵の人望が、自分の上にあることが、マザマザと分ることが、どうしても堪らなかった。
 かれは、筆を持ってぼんやり考えた。
「おい! 阿兄! 早く廻してくんな!」
 横に坐っている浅太郎が、彼に云った。阿兄! と云いながらも、語調だけは、目下を叱しっしているような口調だった。九郎助は、毎度のことながらむっとした。途端に、相手に対する烈しい競争心が――嫉妬しっとがムラムラと彼の心に渦巻いた。
 筆を持っている手が、少しブルブル顫ふるえた。彼は、紙を身体で掩おおいかくすようにしながら、仮名で『くろすけ』と書いた。
 書いてしまうと、彼はその小さい紙片をくるくると丸めて、真中に置いてある空からになった割籠わりごの蓋ふたの中に入れた。が、入れた瞬間に、苦い悔悟が胸の中に直ぐ起った。
「賭博ばくちは打っても、卑怯ひきょうなことはするな。男らしくねえことはするな」
 口癖のように、怒鳴る忠次の声が、耳のそばで、ガンガン鳴りひびくような気がした。彼は皆が自分の顔を、ジロジロ見ているような気がして、どうしても顔を上げることが出来なかった。
 吉井の伝助は、無筆だったので、彼は仲よしの才助に、小声で耳打ちしながら、代筆を頼んだ。
 皆が、札を入れてしまうと、忠次が、
「喜蔵! お前読み上げてみねえ!」と言った。
 皆は、緊張のために、眼を輝かした。過半数のものは諦あきらめていたが、それでも銘々、うぬぼれは持っていた。壺皿を見詰めるような目付で、喜蔵の手許てもとを睨にらんでいた。
「あさ、ああ浅太郎の事だな、浅太郎一枚!」
 そう叫んで喜蔵は、一枚、札を別に置いた。
「浅太郎二枚!」彼は続いてそう叫んだ。
 又、浅太郎が出たのである。浅太郎が、この二三年忠次の信任を得て、影の形に付き従うように、忠次が彼を身辺から放さなかったことは、乾児こぶんの者が皆よく知っていた。浅太郎の声がつづくと、忠次の浅黒い顔に、ニッと微笑が浮んだ。
「喜蔵が一枚!」
 喜蔵は、自分の名が出たのを、嬉うれしそうに、ニコリと笑いながら叫んで、
「嘘じゃねえぞ!」と、付け足しながら、その紙を右の手で高く上げて差し示した。
「その次ぎが又、喜蔵だ!」
 喜蔵は得意げに、又紙札を高く差上げた。
「嘉助が一枚!」
 第三の名前が出た。忠次は、心の中で、私ひそかに選んでいる三人が、入札の表に現われて来るのが、嬉しかった。乾児達が自分の心持を、察していてくれるのが嬉しかった。
「何だ! くろすけ。九郎助だな。九郎助が一枚!」
 喜蔵は、声高く叫んだ。九郎助は、顔から火が出るように思った。生れて初めて感ずるような羞恥しゅうちと、不安と、悔恨とで、胸の裡うちが掻かきむしられるようだ。自分の手蹟しゅせきを、喜蔵が見覚えては、いはしないかと思うと、九郎助は立っても坐っても居られないような気持だった。が、喜蔵は九郎助の札には、こだわっていなかった。
「浅が三枚だ! その次は、喜蔵が三枚だ!」
 喜蔵は大声に叫びつづけた。札が次ぎ次ぎに読み上げられて、喜蔵の手にたった一枚残ったとき、浅が四枚で、喜蔵が四枚だった。嘉助と九郎助とが、各自一枚ずつだった。
 九郎助は、心の裡で懸命に弥助の札が出るのを待っていた。弥助の札が出ないことはないと思っていた。もう一枚さえ出れば、自分が、三人の中に入るのだと思っていた。
 が、最後の札は、彼の切せつない期待を裏切って、嘉助に投ぜられた札だった。
「さあ! みんな聞いてくれ! 浅と喜蔵とが四枚だ。嘉助が二枚だ。九郎助が一枚だ。疑わしいと思う奴は、自分で調べて見るといいや」喜蔵は最後の決定を伝えながら、一座を見廻した。
 誰も調べて見ようとはしなかった。誰よりも先に、九郎助はホッと安心した。
 忠次は自分の思い通りの人間に、札が落ちたのを見ると満足して、切り株から、立ち上った。
「じゃ、みんな腑ふに落ちたんだな。それじゃ、浅と喜蔵と嘉助とを連れて行こう。九郎助は、一枚入っているから連れて行きたいが、最初はな云った言葉を変改へんがいすることは出来ねえから、勘弁しな。さあ、先刻さっきからえろう手間を取った。じゃ、みんな金を分けて銘々に志すところへ行ってくれ」
 乾児の者は、忠次が出してあった裡から、銘々に十二両ずつを分けて取った。
「じゃ、俺達は一足先に行くぜ」忠次は選まれた三人を、麾さしまねくと、みんなに最後の会釈をしながら、頂上の方へぐんぐんと上りかけた。
「親分、御機嫌ごきげんよう。御機嫌よう」
 去って行く忠次の後から、乾児達は口々に呼びかけた。
 忠次は、振り向きながら、時々、被かぶっている菅笠すげがさを取って振った。その長身の身体は、山の中腹を掩おおうている小松林の中に、暫しばらくの間は見え隠れしていた。
 取り残された乾児達の顔には、それぞれ失望の影があった。
「浅達が付いていりゃ、大した間違はありゃしねい!」
 口々に同じようなことを云った。が、やっぱり、銘々自分が入れ札に洩もれた淋さびしさを持っていた。
 が、忠次達の姿が見えなくなると、四五人は諦あきらめたように、草津の方へ落ちて行った。
 九郎助は、忠次と別れるとき、目礼したままじっと考えていた。落選した失望よりも、自分の浅ましさが、ヒシヒシ骨身に徹こたえた。札が、二三人に蒐あつまっているところを見ると、みんな親分の為を計って、浅や喜蔵に入れたのだ。親分の心を汲くんで、浅や喜蔵を選んだのだ。そう思うと、自分の名をかいた卑しさが、愈々いよいよ堪たえられなかった。
 朝の微風が吹いて来て、入れ札の紙が、熊笹くまざさを離れて、ひらひらと飛びそうになった。
「ああ、こんなものが残っていると、とんだ手がかりにならねえとも限らねえ」
 そう云いながら、九郎助は立ち上って散ちらばっている紙片を取り蒐めると、めちゃめちゃに引き断ちぎって投げ捨てた。九郎助の顔は、凄すごいほどに蒼あおかった。
「俺おらあ、秩父ちちぶの方へ落ちようかな」
 九郎助は独言ひとりごとのように云った。彼は仲間の誰とも顔を合しているのが厭だった。秩父に遠縁の者が居るのを幸に、其処そこで百姓にでもなってしまいたかった。
 彼は、草津へ行った連中とは、反対に榛名はるなの西南の麓ふもとを目ざして、ぐんぐん山を降りかけた。
 彼が、二三町も来たときだった。後から声をかけるものがあった。
「おい阿兄あにい! 稲荷いなりの阿兄!」
 彼は、立ち止って振り顧かえった。見ると、弥助が、息を切らしながら、追いかけて来たのであった。彼は弥助の顔を見たときに、烈はげしい憎悪ぞうおが、胸の裡に湧わいた。大切な場合に自分を裏切っていながらまだ身の振方をでも相談しようとするらしい相手の、図々しい態度を見ると、彼はその得手勝手が、叩たたき切ってやりたいほど、癪しゃくに障さわった。
「俺、よっぽど草津から越後へ出ようと思ったが、よく考えてみると、熊谷くまがや在ざいに伯父が居るのだ、少しは、熊谷は危険かも知れねえが、故郷へかえる足溜あしだまりには持って来いだ。それで俺も武州ぶしゅうの方へ出るから、途中まで付き合ってくれねえか」
 九郎助は、返事をする事さえ厭だった。黙ってすたこら歩いていた。
 弥助は、九郎助が機嫌が悪いのを知ると、傍そばへ寄った。
「俺あ、今日の入れ札には、最初はなから厭だった。親分も親分だ! 餓鬼の時から一緒に育ったお前を連れて行くと云わねえ法はねえ。浅や喜蔵は、いくら腕節や、才覚があっても、云わば、お前に比べればホンの小僧っ子だ。たとい、入れ札にするにしたところが、野郎達が、お前を入れねえと云うことはありゃしねえ。十一人の中でお前の名をかいたのは、この弥助一人だと思うと、俺あ彼奴あいつ等の心根こころねが、全くわからねえや」
 黙って聞いた九郎助は、火のようなものが、身体からだの周囲に、閃ひらめいたような気がした。
「この野郎!」そう思いながら、脇差わきざしの柄つかを、左の手で、グッと握りしめた。もう、一言云って見ろ、抜打ちに斬きってやろうと思った。
 が、九郎助が火のように、怒っていようとは夢にも知らない弥助は、平気な顔をして寄り添って歩いていた。
 柄を握りしめている九郎助の手が、段々緩ゆるんで来た。考えてみると、弥助の嘘を咎とがめるのには、自分の恥しさを打ち開けねばならない。
 その上、自分に大嘘を吐ついている弥助でさえ、自分があんな卑しい事をしたのだとは、夢にも思っていなければこそ、こんな白々しい嘘を吐つくのだと思うと、九郎助は自分で自分が情けなくなって来た。口先だけの嘘を平気で云う弥助でさえが考え付かないほど、自分は卑しいのだと思うと、頭の上に輝いている晩春のお天道様が、一時に暗くなるような味気なさを味あじわった。
 山の多い上州の空は、一杯に晴れていた。峰から峰へ渡る幾百羽と云う小鳥の群が、黄きいろい翼をひらめかしながら、九郎助の頭の上を、ほがらかに鳴きながら通っている。行手には榛名はるなが、空を劃くぎって蒼々と聳そびえていた。