春琴抄

作者: 谷崎潤一郎

春琴、ほんとうの名は鵙屋琴もずやこと、大阪道修町どしょうまちの薬種商の生れで歿年ぼつねんは明治十九年十月十四日、墓は市内下寺町の浄土宗じょうどしゅうの某寺ぼうじにある。せんだって通りかかりにお墓参りをする気になり立たち寄よって案内を乞こうと「鵙屋さんの墓所はこちらでございます」といって寺男が本堂のうしろの方へ連れて行った。見るとひと叢むらの椿つばきの木かげに鵙屋家代々の墓が数基ならんでいるのであったが琴女の墓らしいものはそのあたりには見あたらなかった。むかし鵙屋家の娘むすめにしかじかの人があったはずですがその人のはというとしばらく考えていて「それならあれにありますのがそれかも分りませぬ」と東側の急な坂路になっている段々の上へ連れて行く。知っての通り下寺町の東側のうしろには生国魂いくたま神社のある高台が聳そびえているので今いう急な坂路は寺の境内けいだいからその高台へつづく斜面しゃめんなのであるが、そこは大阪にはちょっと珍めずらしい樹木の繁しげった場所であって琴女の墓はその斜面の中腹を平らにしたささやかな空地あきちに建っていた。光誉春琴恵照禅定尼、と、墓石の表面に法名を記し裏面に俗名鵙屋琴、号春琴、明治十九年十月十四日歿、行年ぎょうねん五拾八歳ごじゅうはっさいとあって、側面に、門人温井ぬくい佐助建之と刻してある。琴女は生涯しょうがい鵙屋姓せいを名のっていたけれども「門人」温井検校けんぎょうと事実上の夫婦ふうふ生活をいとなんでいたのでかく鵙屋家の墓地と離はなれたところへ別に一基を選んだのであろうか。寺男の話では鵙屋の家はとうに没落ぼつらくしてしまい近年は稀まれに一族の者がお参りに来るだけであるがそれも琴女の墓を訪おとなうことはほとんどないのでこれが鵙屋さんの身内のお方のものであろうとは思わなかったという。するとこの仏さまは無縁むえんになっているのですかというと、いえ無縁という訳ではありませぬ萩はぎの茶屋の方に住んでおられる七十恰好かっこうの老婦人が年に一二度お参りに来られます、そのお方はこのお墓へお参りをされて、それから、それ、ここに小さなお墓があるでしょうと、その墓の左脇ひだりわきにある別な墓を指し示しながらきっとそのあとでこのお墓へも香華こうげを手向たむけて行かれますお経料などもそのお方がお上げになりますという。寺男が示した今の小さな墓標の前へ行って見ると石の大きさは琴女の墓の半分くらいである。表面に真誉琴台正道信士と刻し裏面に俗名温井佐助、号琴台、鵙屋春琴門人、明治四十年十月十四日歿、行年八拾三歳とある。すなわちこれが温井検校の墓であった。萩の茶屋の老婦人というのは後に出て来るからここには説くまいただこの墓が春琴の墓にくらべて小さくかつその墓石に門人である旨むねを記して死後にも師弟の礼を守っているところに検校の遺志がある。私は、おりから夕日が墓石の表にあかあかと照っているその丘おかの上に彳たたずんで脚下にひろがる大大阪市の景観を眺ながめた。けだしこのあたりは難波津なにわづの昔からある丘陵きゅうりょう地帯で西向きの高台がここからずっと天王寺てんのうじの方へ続いている。そして現在では煤煙ばいえんで痛めつけられた木の葉や草の葉に生色がなく埃ほこりまびれに立たち枯かれた大木が殺風景さっぷうけいな感じを与えるがこれらの墓が建てられた当時はもっと鬱蒼うっそうとしていたであろうし今も市内の墓地としてはまずこの辺が一番閑静かんせいで見晴らしのよい場所であろう。奇くしき因縁いんねんに纏まとわれた二人の師弟は夕靄ゆうもやの底に大ビルディングが数知れず屹立きつりつする東洋一の工業都市を見下しながら、永久にここに眠ねむっているのである。それにしても今日の大阪は検校が在りし日の俤おもかげをとどめぬまでに変ってしまったがこの二つの墓石のみは今も浅からぬ師弟の契ちぎりを語り合っているように見える。元来温井検校の家は日蓮宗にちれんしゅうであって検校を除く温井一家の墓は検校の故郷こきょう江州ごうしゅう日野町の某寺にある。しかるに検校が父祖代々の宗旨しゅうしを捨てて浄土宗に換かえたのは墓になっても春琴女の側そばを離れまいという殉情じゅんじょうから出たもので、春琴女の存生中、早くすでに師弟の法名、この二つの墓石の位置、釣合つりあい等が定められてあったという。目分量で測ったところでは春琴女の墓石は高さ約六尺検校のは四尺に足らぬほどであろうか。二つは低い石甃いしだたみの壇だんの上に並んで立っていて春琴女の墓の右脇みぎわきにひと本もとの松まつが植えてあり緑の枝が墓石の上へ屋根のように伸のびているのであるが、その枝の先が届かなくなった左の方の二三尺離れたところに検校の墓が鞠躬加きっきゅうじょとして侍坐じざするごとく控ひかえている。それを見ると生前検校がまめまめしく師に事つかえて影かげの形に添そうように扈従こしょうしていた有様が偲しのばれあたかも石に霊れいがあって今日もなおその幸福を楽しんでいるようである。私は春琴女の墓前に跪ひざまずいて恭うやうやしく礼をした後検校の墓石に手をかけてその石の頭を愛撫あいぶしながら夕日が大市街のかなたに沈しずんでしまうまで丘の上に低徊ていかいしていた

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近頃ちかごろ私の手に入れたものに「鵙屋春琴伝」という小冊子がありこれが私の春琴女を知るに至った端緒たんちょであるがこの書は生漉きずきの和紙へ四号活字で印刷した三十枚ほどのもので察するところ春琴女の三回忌きに弟子の検校が誰だれかに頼んで師の伝記を編ませ配り物にでもしたのであろう。されば内容は文章体で綴つづってあり検校のことも三人称しょうで書いてあるけれども恐おそらく材料は検校が授けたものに違いなくこの書のほんとうの著者は検校その人であると見て差支さしつかえあるまい。伝によると「春琴の家は代々鵙屋安左衛門やすざえもんを称し、大阪道修町に住して薬種商を営む。春琴の父に至りて七代目也なり。母しげ女は京都麩屋町ふやちょうの跡部あとべ氏の出にして安左衛門に嫁かし二男四女を挙ぐ。春琴はその第二女にして文政ぶんせい十二年五月二十四日をもって生うまる」とある。また曰いわく、「春琴幼にして穎悟えいご、加うるに容姿端麗ようしたんれいにして高雅こうがなること譬たとえんに物なし。四歳の頃より舞まいを習いけるに挙措きょそ進退の法自おのずから備わりてさす手ひく手の優艶ゆうえんなること舞妓まいこも及ばぬほどなりければ、師もしばしば舌を巻きて、あわれこの児こ、この材と質とをもってせば天下に嬌名きょうめいを謳うたわれんこと期して待つべきに、良家の子女に生れたるは幸とや云わん不幸とや云わんと呟つぶやきしとかや。また早くより読み書きの道を学ぶに上達すこぶる速すみやかにして二人の兄をさえ凌駕りょうがしたりき」と。これらの記事が春琴を視みること神のごとくであったらしい検校から出たものとすればどれほど信を置いてよいか分らないけれども彼女の生れつきの容貌ようぼうが「端麗にして高雅」であったことはいろいろな事実から立証される。当時は婦人の身長が一体に低かったようであるが彼女かのじょも身の丈たけが五尺に充みたず顔や手足の道具が非常に小作りで繊細せんさいを極めていたという。今日伝わっている春琴女が三十七歳の時の写真というものを見るのに、輪郭りんかくの整った瓜実顔うりざねがおに、一つ一つ可愛かわいい指で摘つまみ上げたような小柄こがらな今にも消えてなくなりそうな柔やわらかな目鼻がついている。何分なにぶんにも明治初年か慶応けいおう頃の撮影さつえいであるからところどころに星が出たりして遠い昔の記憶きおくのごとくうすれているのでそのためにそう見えるのでもあろうが、その朦朧もうろうとした写真では大阪の富裕ふゆうな町家の婦人らしい気品を認められる以外に、うつくしいけれどもこれという個性の閃ひらめきがなく印象の稀薄きはくな感じがする。年恰好かっこうも三十七歳といえばそうも見えまた二十七八歳のようにも見えなくはない。この時の春琴女はすでに両眼の明めいを失ってから二十有余年の後であるけれども盲目もうもくというよりは眼をつぶっているという風に見える。かつて佐藤春夫が云ったことに聾者ろうしゃは愚人ぐじんのように見え盲人もうじんは賢者けんじゃのように見えるという説があった。なぜならつんぼは人の云うことを聴きこうとして眉まゆをしかめ眼や口を開け首を傾かたむけたり仰向あおむけたりするので何となく間まの抜ぬけたところがあるしかるに盲人はしずかに端坐たんざして首をうつ向け、瞑目沈思めいもくちんしするかのごとき様子をするからいかにも考え深そうに見えるというのであって果して一般に当て篏はまるかどうか分らないがそれは一つには仏菩薩ぶつぼさつの眼、慈眼視衆生じげんししゅじょうという慈眼なるものは半眼に閉じた眼であるからそれを見馴みなれているわれわれは開いた眼よりも閉じた眼の方に慈悲や有難ありがたみを覚えある場合には畏おそれを抱いだくのであろうか。されば春琴女の閉じた眼瞼まぶたにもそれが取り分け優しい女人であるせいか古い絵像の観世音かんぜおんを拝んだようなほのかな慈悲を感ずるのである。聞くところによると春琴女の写真は後あとにも先にもこれ一枚しかないのであるという彼女が幼少の頃はまだ写真術が輸入されておらずまたこの写真を撮とった同じ年に偶然ぐうぜんある災難が起りそれより後は決して写真などを写さなかったはずであるから、われわれはこの朦朧たる一枚の映像をたよりに彼女の風貌ふうぼうを想見するより仕方がない。読者は上述の説明を読んでどういう風な面立おもだちを浮うかべられたか恐おそらく物足りないぼんやりしたものを心に描えがかれたであろうが、仮りに実際の写真を見られても格別これ以上にはっきり分るということはなかろうあるいは写真の方が読者の空想されるものよりもっとぼやけているでもあろう。考えてみると彼女がこの写真をうつした年すなわち春琴女が三十七歳のおりに検校もまた盲人になったのであって、検校がこの世で最後に見た彼女の姿はこの映像に近いものであったかと思われる。すると晩年の検校が記憶きおくの中に存していた彼女の姿もこの程度にぼやけたものではなかったであろうか。それとも次第しだいにうすれ去る記憶を空想で補って行くうちにこれとは全然異なった一人の別な貴い女人にょにんを作り上げていたであろうか

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春琴伝は続けて曰いわく、「されば両親も琴女を視みること掌中しょうちゅうの珠たまのごとく、五人の兄妹達に超こえて唯ひとりこの児こを寵愛ちょうあいしけるに、琴女九歳の時不幸にして眼疾がんしつを得、幾いくばくもなくしてついに全く両眼の明を失いければ、父母の悲歎ひたん大方ならず、母は我が児の不憫ふびんさに天を恨うらみ人を憎にくみて一時狂きょうせるがごとくなりき。春琴これより舞技を断念して専もっぱら琴三絃さんげんの稽古けいこを励はげみ、糸竹の道を志すに至りぬ」と。春琴の眼疾というのは何であったか明かでなく伝にもこれ以上の記載きさいがないが後に検校が人に語ってまことに喬木きょうぼくは風に妬ねたまれるとやら、お師匠ししょうさまはご器量きりょうや芸能が諸人にすぐれておられたばかりに一生のうちに二度までも人の嫉ねたみをお受けなされたお師匠さまの御不運は全くこの二度のご災難のお蔭かげじゃと云ったのを思い合わせれば、何かその間に事情が伏在ふくざいするようでもある。検校はまたお師匠さまのは風眼であったとも云った。春琴女は甘あまやかされて育ったために驕慢きょうまんなところはあったけれども言語動作が愛嬌あいきょうに富み目下の者への思いやりが深く加うるに至って花やかな陽気な性質であったから、人あたりもよく兄弟仲も睦むつまじく一家中の者に親しまれたが一番末の妹に附いていた乳母うばが両親の愛情の偏頗へんぱなのを憤いきどおって密ひそかに琴女を憎んでいたという。風眼というものは人も知るごとく花柳病かりゅうびょうの黴菌ばいきんが眼の粘膜ねんまくを侵おかす時に生ずるのであるから検校の意は、けだしこの乳母がある手段をもって彼女を失明させたことを諷ふうするのである。しかし確かな根拠こんきょがあってそう思うのか検校一人だけの想像説であるのか明瞭めいりょうでない。春琴女が後年の烈はげしい気象を見ればあるいはそういう事実が性格に影響えいきょうを及ぼしたのかとも猜さいせられなくはないがこの事に限らず検校の説には春琴女の不幸を歎なげくあまり知らず識しらず他人を傷つけ呪のろうような傾かたむきがありにわかにことごとくを信ずる訳に行かない乳母の一件なども恐らくは揣摩臆測しまおくそくに過ぎないであろう。要するにここではあえて原因を問わずただ九歳の時に盲目になったことを記せば足りる。そして「これより舞技を断念して専ら琴三絃の稽古を励み、糸竹の道を志」した。つまり春琴女が思いを音曲おんぎょくにひそめるようになったのは失明した結果だということになり彼女自身も自分のほんとうの天分は舞にあった、わたしの琴や三味線しゃみせんを褒ほめる人があるのはわたしというものを知らないからだ眼さえ見えたら自分は決して音曲の方へは行かなかったのにと常に検校に述懐じゅっかいしたという。これは半面に自分の不得意な音曲でさえこのくらいに出来るという風に聞え彼女の驕慢な一端いったんが窺うかがわれるがこの言葉なども多少検校の修飾しゅうしょくが加わっていはしないか少くとも彼女が一時の感情に任せて発した言葉を有難く肝きもに銘めいじて聴き、彼女を偉えらくするために重大な意味を持たせた嫌きらいがありはしないか。前掲ぜんけいの萩の茶屋に住んでいる老婦人というのは鴫沢しぎさわてるといい生田いくた流の勾当こうとうで晩年の春琴と温井検校に親しく仕えた人であるがこの勾当の話を聞くに、お師匠さま〔春琴のこと〕は舞がお上手じょうずだったそうにござりますが琴や三味線も五つ六つの時分から春松という検校さんに手ほどきをしておもらいなされそれからずっと稽古を励んでおられました、それ故ゆえ盲目になってから始めて音曲を習われたのではないのでござります、よいお内うちの娘とうさん方は皆みな早くから遊芸のけいこをされますのがその頃の習慣でござりましたお師匠さまは十の歳にあのむずかしい「残月」の曲を聞き覚えて独ひとりで三味線にお取りなされたと申しますそうしてみれば音曲の方にも生れつきの天才を備えておられたのでござりましょうなかなか凡人ぼんじんには真似まねられぬことでござりますただ盲目になられてからは外ほかに楽しみがござりませぬので一層いっそう深くこの道へお這入はいりなされ、精魂せいこんを打ち込まれたのかとぞんじますとのことである。多分この説の方がほんとうなので彼女の真の才能は実は始めより音楽に存したのであろう舞踊ぶようの方は果してどの程度であったか疑わしく思われる

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音曲の道に精魂を打ち込んだとはいうものの生計の心配をする身分ではないから最初はそれを職業にしようというほどの考かんがえはなかったであろう後に彼女が琴曲の師匠として門戸を構えたのは別種の事情がそこへ導いたのであり、そうなってからでもそれで生計を立てたのではなく月々道修町どしょうまちの本家から仕送る金子きんすの方が比較ひかくにならぬほど多額だったのであるが、彼女の驕奢きょうしゃと贅沢ぜいたくとはそれでも支えきれなかった。されば始めは格別将来の目算もなくただ好きにまかせて一生懸命けんめいに技を研みがいたのであろうが天稟てんぴんの才能に熱心が拍車はくしゃをかけたので、「十五歳の頃春琴の技大いに進みて儕輩さいはいを抽ぬきんで、同門の子弟にして実力春琴に比肩ひけんする者一人もなかりき」とあるのは恐らく事実であろう。鴫沢勾当曰いわくお師匠さまがいつも自慢じまんをされましたのに春松検校は随分ずいぶん稽古が厳きびしいお方だったけれど、わたしは身に沁しみて叱しかられたということがなかった褒ほめられたことの方が多かった、私が行くとお師匠さんは必ずご自分で稽古をつけて下されそれはそれは親切に優しく教えて下さるのでお師匠さんを怖こわがる人たちの気が知れなんだということでござります、でござりますから修行の苦しみというものを知らずにあれまでにおなりなされたのは天品だったのでござりましょうと。けだし春琴は鵙屋のお嬢じょう様であるからいかに厳格な師匠でも芸人の児を仕込むような烈はげしい待遇たいぐうをする訳に行かない幾分か手心を加えたのであろうその間にはまた、千金の家に生れながら不幸にして盲目となった可憐かれんな少女を庇護ひごする感情もあったろうけれども何よりも師の検校は彼女の才を愛し、それに惚ほれ込こんだのであった。彼は我が児以上に春琴の身を案じたまたま微恙びようで欠席する等のことがあれば直ちに使つかいを道修町に走らせあるいは自ら杖つえを曳ひいて見舞みまった。常に春琴を弟子に持っていることを誇ほこりとして人に吹聴ふいちょうし玄人くろうと筋の門弟たちが大勢集まっている所でお前達は鵙屋のこいさんの芸を手本とせよ〔注、大阪では「お嬢さん」のことを「糸いとさん」あるいは「とうさん」といい姉娘に対して妹娘を「小糸こいとさん」あるいは「こいさん」などと呼び分けること現在もしかり。春松検校は春琴の姉にも手ほどきをしたことあり家庭的に親しかったので春琴をかく呼んだのであろう〕今に腕うで一本で食べて行かなければならない者が素人しろうとのこいさんに及ばないようでは心細いぞといった。また春琴をいたわり過ぎるという批難ひなんがあった時何をいうぞ師たる者が稽古をつけるには厳しくするこそ親切なのじゃわしがあの児を叱らぬのはそれだけ親切が足らぬのじゃあの児は天性芸道に明るく悟さとりが速いから捨てて置いても進む所までは進む本気で叩たたき込こんだらばいよいよ後生こうせい畏おそろしい者になり本職の弟子共が困るであろう、何も結構な家に生れて世過よすぎに不自由のない娘をそれほどに教え込まずとも鈍根どんこんの者をこそ一人前に仕立ててやろうと力瘤ちからこぶを入れているのに、何という心得違いをいうぞといった

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春松検校の家は靱うつぼにあって道修町の鵙屋の店からは十丁ほどの距離きょりであったが春琴は毎日丁稚でっちに手を曳ひかれて稽古に通ったその丁稚というのが当時佐助と云った少年で後の温井検校であり、春琴との縁がかくして生じたのである。佐助は前に述べたごとく江州日野の産であって実家はやはり薬屋を営み彼の父も祖父も見習い時代に大阪に出て鵙屋に奉公をしたことがあるという鵙屋は実に佐助に取って累代るいだいの主家であった。春琴より四つ歳上で十三歳の時に始めて奉公に上ったのであるから春琴が九つの歳すなわち失明した歳に当るが彼が来た時は既に春琴の美しい瞳ひとみが永久に鎖とざされた後であった。佐助はこのことを、春琴の瞳の光を一度も見なかったことを後年に至るまで悔くいていないかえって幸福であるとした。もし失明以前を知っていたら失明後の顔が不完全なものに見えたろうけれども幸い彼は彼女の容貌に何一つ不足なものを感じなかった最初から円満具足した顔に見えた。今日大阪の上流の家庭は争って邸宅ていたくを郊外こうがいに移し令嬢れいじょうたちもまたスポーツに親しんで野外の空気や日光に触ふれるから以前のような深窓の佳人かじん式箱入娘はいなくなってしまったが現在でも市中に住んでいる子供たちは一般に体格が繊弱せんじゃくで顔の色なども概がいして青白い田舎いなか育ちの少年少女とは皮膚ひふの冴さえ方が違う良く云えば垢抜あかぬけがしているが悪く云えば病的である。これは大阪に限ったことでなく都会の通有性だけれども江戸では女でも浅黒いのを自慢にしたくらいで色の白きは京阪に及ばない大阪の旧家に育ったぼんちなどは男でさえ芝居しばいに出て来る若旦那わかだんなそのままにきゃしゃで骨細なのがあり、三十歳前後に至って始めて顔が赭あかく焼けて来て脂肪しぼうを湛たたえ急に体が太り出して紳士しんし然たる貫禄かんろくを備えるようになるその時分までは全く婦女子も同様に色が白く衣服の好みも随分柔弱にゅうじゃくなのである。まして旧幕時代の豊かな町人の家に生れ、非衛生的な奥深おくふかい部屋に垂たれ籠こめて育った娘たちの透すき徹とおるような白さと青さと細さとはどれほどであったか田舎者の佐助少年の眼にそれがいかばかり妖あやしく艶えんに映ったか。この時春琴の姉が十二歳すぐ下の妹が六歳で、ぽっと出の佐助にはいずれも鄙ひなには稀まれな少女に見えた分けても盲目の春琴の不思議な気韻きいんに打たれたという。春琴の閉じた眼瞼が姉妹たちの開いた瞳より明るくも美しくも思われてこの顔はこれでなければいけないのだこうあるのが本来だという感じがした。四人の姉妹のうちで春琴が最も器量よしという評判が高かったのは、たといそれが事実だとしても幾分いくぶんか彼女の不具を憐あわれみ惜おしむ感情が手伝っていたであろうが佐助に至ってはそうでなかった。後日佐助は自分の春琴に対する愛が同情や憐愍れんびんから生じたという風に云われることを何よりも厭いといそんな観察をする者があると心外千万であるとした。わしはお師匠様のお顔を見てお気の毒とかお可哀かわいそうとか思ったことは一遍いっぺんもないぞお師匠様に比べると眼明きの方がみじめだぞお師匠様があのご気象とご器量で何で人の憐れみを求められよう佐助どんは可哀そうじゃとかえってわしを憐れんで下すったものじゃ、わしやお前達は眼鼻が揃そろっているだけで外ほかの事は何一つお師匠様に及ばぬわしたちの方が片羽ではないかと云った。ただしそれは後の話で佐助は最初燃えるような崇拝すうはいの念を胸の奥底に秘めながらまめまめしく仕えていたのであろうまだ恋愛れんあいという自覚はなかったであろうし、あっても相手は頑是がんぜないこいさんである上に累代の主家のお嬢様である佐助としてはお供の役を仰おおせ付かって毎日一緒いっしょに道を歩くことの出来るのがせめてもの慰なぐさめであっただろう。いったい新参の少年の身をもって大切なお嬢様の手曳てびきを命ぜられたというのは変なようだが始めは佐助に限っていたのではなく女中が附いて行くこともあり外の小僧や若僧が供をすることもありいろいろであったのをある時春琴が「佐助どんにしてほしい」といったのでそれから佐助の役に極きまったそれは佐助が十四歳になってからである。彼は無上の光栄に感激かんげきしながらいつも春琴の小さな掌てのひらを己おのれの掌の中に収めて十丁の道のりを春松検校の家に行き稽古の済むのを待って再び連れて戻もどるのであったが途中春琴はめったに口を利いたことがなく、佐助もお嬢様が話しかけて来ない限りは黙々もくもくとしてただ過ちのないように気を配った。春琴は「何でこいさんは佐助どんがええお云いでしたんでっか」と尋たずねる者があった時「誰よりもおとなしゅうていらんこと云えへんよって」と答えたのであった。元来彼女は愛嬌に富み人あたりが良かったことは前に述べた通りだけれども失明以来気むずかしく陰鬱いんうつになり晴れやかな声を出すことや笑うことが少く口が重くなっていたので、佐助が余計なおしゃべりをせず役目だけを大切に勤めて邪魔じゃまにならぬようにしている所が気に入ったのであるかも知れない〔佐助は彼女の笑う顔を見るのが厭いやであったというけだし盲人が笑う時は間が抜けて哀あわれに見える佐助の感情ではそれが堪たえられなかったのであろう〕

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おしゃべりをしないから邪魔にならぬからというのが果して春琴の真意であったか佐助の憧憬しょうけいの一念がおぼろげに通じて子供ながらもそれを嬉うれしく思ったのではなかったか十歳の少女にそういうことは有り得ないとも考えられるが、俊敏しゅんびんで早熟そうじゅくの上に盲目になった結果として第六感の神経が研とぎ澄すまされてもいたことを思うと必ずしも突飛とっぴな想像であるとはいえない気位の高い春琴は後に恋愛を意識するようになってからでも容易に胸中を打ち明けず久しい間佐助に許さなかったのである。さればそこに多少の疑問はあるけれどもとにかく始め佐助というものの存在はほとんど春琴の念頭にないかのごとくであった少くとも佐助にはそう見えた。手曳きをする時佐助は左の手を春琴の肩かたの高さに捧ささげて掌を上に向けそれへ彼女の右の掌を受けるのであったが春琴には佐助というものが一つの掌に過ぎないようであったたまたま用をさせる時にもしぐさで示したり顔をしかめてみせたり謎なぞをかけるようにひとりごとを洩もらしたりしてどうせよこうせよとはっきり意志を云い現わすことはなく、それを気が付かずにいると必ず機嫌きげんが悪いので佐助は絶えず春琴の顔つきや動作を見落さぬように緊張きんちょうしていなければならずあたかも注意深さの程度を試されているように感じた。もともと我わが儘ままなお嬢様育ちのところへ盲人に特有な意地悪さも加わって片時も佐助に油断する暇いとまを与えなかった。ある時春松検校の家で稽古の順番が廻まわって来るのを待っている間にふと春琴の姿が見えなくなったので佐助が驚おどろいてその辺を捜さがすと知らぬ間に厠かわやに行っているのであった。いつも小用に立つ時には黙って春琴が出て行くのをそれと察して追いかけながら戸口まで手を曳いて連れて行き、そこに待っていて手水ちょうずの水をかけてやるのに今日は佐助がうっかりしていたのでそのまま独ひとり手さぐりで行ったのである。「済まんことでござりました」と佐助は声をふるわせながら、厠から出て手水鉢ばちの柄杓ひしゃくを取ろうと手を伸のばしている少女の前に駈かけて来て云ったが春琴は「もうええ」と云いつつ首を振ふった。しかしこういう場合「もうええ」といわれても「そうでござりますか」と引き退さがっては一層後がいけないのである無理にも柄杓を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)もぎ取るようにして水をかけてやるのがコツなのである。またある夏の日の午後に順番を待っている時うしろに畏かしこまって控ひかえていると「暑い」と独ひとりごとを洩らした「暑うござりますなあ」とおあいそを云ってみたが何の返事もせずしばらくするとまた「暑い」という、心づいて有り合わせた団扇うちわを取り背中の方からあおいでやるとそれで納得なっとくしたようであったが少しでもあおぎ方が気が抜けるとすぐ「暑い」を繰くり返かえした。春琴の強情と気儘きままとはかくのごとくであったけれども特に佐助に対する時がそうなのであっていずれの奉公人ほうこうにんにもという訳ではなかった元来そういう素質があったところへ佐助が努めて意を迎えるようにしたので、彼に対してのみその傾向けいこうが極端になって行ったのである彼女が佐助を最も便利に思った理由もここにあるのであり佐助もまたそれを苦役と感ぜずむしろ喜んだのであった彼女の特別な意地悪さを甘あまえられているように取り、一種の恩寵おんちょうのごとくに解したのでもあろう

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春松検校が弟子でしに稽古をつける部屋は奥の中二階にあったので佐助は番が廻って来ると春琴を導いて段梯子だんばしごを上り検校とさし向いの席に直らせて琴なり三味線なりをその前に置き、いったん控え室へ下さがって稽古の終るのを待ち再び迎えに行くのであるが待っている間ももう済む頃かと油断なく耳を立てていて済んだら呼ばれない中うちに直ただちに立って行くようにしたされば春琴の習っている音曲が自然と耳につくようになるのも道理である佐助の音楽趣味しゅみはかくして養われたのであった。後年一流の大家になった人であるから生れつきの才能もあったろうけれどももし春琴に仕える機会を与えられずまた何かにつけて彼女に同化しようとする熱烈ねつれつな愛情がなかったならば、恐らく佐助は鵙屋の暖簾のれんを分けてもらい一介いっかいの薬種商として平凡へいぼんに世を終ったであろう後年盲目となり検校の位を称してからも常に自分の技は遠く春琴に及ばずと為なし全くお師匠様の啓発けいはつによってここまで来たのであるといっていた。春琴を九天の高さに持ち上げ百歩も二百歩も謙へりくだっていた佐助であるからかかる言葉をそのまま受け取る訳には行かないが、技の優劣ゆうれつはとにかくとして春琴の方がより天才肌てんさいはだであり佐助は刻苦精励せいれいする努力家であったことだけは間違いがあるまい。彼が密ひそかに一挺いっちょうの三味線を手に入れようとして主家から給される時々の手あてや使い先で貰もらう祝儀しゅうぎなどを貯金し出したのは十四歳の暮くれであって翌年の夏ようよう粗末そまつな稽古三味線を買い求めると番頭に見咎みとがめられぬように棹さおと胴どうとを別々に天井裏てんじょううらの寝部屋ねべやへ持ち込み、夜な夜な朋輩ほうばいの寝静まるのを待って独り稽古をしたのである。しかし当初は、父祖の業を継つぐ目的で丁稚奉公に住み込んだ身の将来これを本職にしようという覚悟かくごも自信もあったのではなかったただ春琴に忠実である余り彼女の好むところのものを己おのれも好むようになりそれが昂こうじた結果であり音曲をもって彼女の愛を得る手段に供しようなどの心すらもなかったことは、彼女にさえ極力秘していた一事をもって明かである。佐助は五六人の手代や丁稚共と立つと頭がつかえるような低い狭せまい部屋へ寝るので彼等かれらの眠ねむりを妨さまたげぬことを条件として内証にしておいてくれるように頼んだ。幾いくら眠っても寝足りない年頃としごろの奉公人共は床に這入るとたちまちぐっすり寝入ってしまうから苦情をいう者はいなかったけれども佐助は皆が熟睡じゅくすいするのを待って起き上り布団ふとんを出したあとの押入おしいれの中で稽古をした。それでなくても天井裏は蒸し暑いのに押入の中の夏の夜の暑さは格別であったに違いないがこうすると絃げんの音の外へ洩れるのを防ぐことが出来、鼾いびきごえや寝言など外部の音響おんきょうをも遮断しゃだんするに都合つごうが好かったもちろん爪弾つまびきで撥ばちは使えなかった燈火のない真まっ暗くらな所で手さぐりで弾くのである。しかし佐助はその暗闇くらやみを少しも不便に感じなかった盲目の人は常にこう云う闇の中にいるこいさんもまたこの闇の中で三味線を弾きなさるのだと思うと、自分も同じ暗黒世界に身を置くことがこの上もなく楽しかった後に公然と稽古することを許可されてからもこいさんと同じにしなければ済まないと云って楽器を手にする時は眼をつぶるのが癖くせであったつまり眼明きでありながら盲目の春琴と同じ苦難を嘗なめようとし、盲人の不自由な境涯きょうがいを出来るだけ体験しようとして時には盲人を羨うらやむかのごとくであった彼が後年ほんとうの盲人になったのは実に少年時代からのそういう心がけが影響しているので、思えば偶然ぐうぜんでないのである

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いずれの楽器も蘊奥うんおうを極めることのむずかしさは同一であろうがヴァイオリンと三味線とはツボに何の印もなくかつ弾奏だんそうの度たびごとに絃げんの調子を整えてかかる必要があるのでひと通り弾ひけるようになるまでが容易でなく独稽古ひとりげいこには最も不向きであるいわんや音譜おんぷのない時代においてをや師匠についても琴は三月三味線は三年と普通ふつうに云われる。佐助は琴のような高価な楽器を買う金もなし第一あんな嵩張かさばるものを担ぎ込む訳に行かないので三味線から始めたのであるが調子を合わせることは最初から出来たというそれは音を聴きき分ける生れつきの感覚が少くともコンマ以上であったことを示すと共に、平素春琴に随行ずいこうして検校の家で待っている間にいかに注意深く他人の稽古を聴いていたかを証するに足りる。調子の区別も曲の詞も音の高低も節廻ふしまわしも総すべて彼は耳の記憶きおくを頼りにしなければならなかったそれ以外に頼るものは何もなかった。かくして十五歳の夏から約半歳の間は幸い同室の朋輩の外に誰にも知られずに済んだのであったがその年の冬に至って一つの事件が起ったある夜明け方と云っても冬の午前四時頃まだ真っ暗な夜中も同然の時刻に、鵙屋の御寮人ごりょうにんすなわち春琴の母のしげ女がふと厠に起きてどこからともなく洩れて来る「雪」の曲を聞いたのである。昔は寒稽古と云って寒中夜のしらしら明けに風に吹き曝さらされながら稽古をするという習慣があったけれども道修町は薬屋の多い区域くいきであって堅儀かたぎな店舗てんぽが軒のきを列つらね遊芸の師匠や芸人などの住宅のある所でもなしなまめかしい種類の家は一軒いっけんもないのであるそれにしんしんと更ふけた真夜中、寒稽古にしても時刻があまり突飛過ぎる、寒稽古なら一生懸命撥音たかく弾くであろうに微かすかな爪弾きで弾いているそのくせ一つ所を合点がてんの行くまで繰り返して練習しているらしく熱心のさまが想おもいやられた。鵙屋の御寮人は訝いぶかしみながらもその時は大して気にも止めず寝てしまったがその後二三度も夜中起き出いでるごとに耳についたことがありそう云えば私も聞きましたどこで弾いているのでござりましょう、狸たぬきの腹鼓はらづつみとも違うようでござりますなどと云う者も出て来て店員たちの知らぬ間に奥で問題になっていた。佐助は夏以来ずっと押入の中でしていればよかったのだが誰も気が付きそうにないので大胆だいたんになって来たのと、何分激しい業務の余暇よかに睡眠すいみん時間を盗ぬすんでは稽古するのであるから次第に寝不足が溜たまって来て暖い所だとつい居睡いねむりが襲おそって来るので、秋の末頃から夜な夜なそっと物干台ものほしだいに出て弾いた。いつも夜の四つ時すなわち午後十時には店員たちと共に眠りにつき午前三時頃に眼を覚まして三味線を抱かかえて物干台に出るそうして冷たい夜気に触ふれつつ独習を続け東が仄ほのかに白み初そめる刻限に至って再び寝床に帰るのである春琴の母が聞いたのはそれであった。けだし佐助が忍しのび出た物干台というのは店舗てんぽの屋上にあったのであろうから真下に寝ている店員共よりも中前栽なかせんざいを隔へだてた奥の者が渡り廊下ろうかの雨戸を開けた時にまずその音を聞きつけたのである。奥からの注意で店員共が取り調べられ結局佐助の所為と分って一番番頭の前に呼びつけられ大眼玉を喰くらった上に以後は断じて罷まかりならぬと三味線を没収ぼっしゅうされたことは当然の成行を見た訳であるが、この時意外な所から佐助に救いの手が伸ばされたとにかくどのくらい弾けるものか聴いてみたいという意見が奥から持ち出されたのであるしかもその首唱者は春琴であった。佐助はこの事が春琴に知れたら定めし機嫌を損ずるであろうただ与えられた手曳きの役をしていればよいのに丁稚の分際ぶんざいで生意気な真似まねをすると憫殺びんさつされるか嘲笑ちょうしょうされるか、どっちみち碌ろくなことはあるまいと恐れを抱いだいていただけに「聴いてやろう」と云われるとかえって尻込しりごみをした。自分の誠意が天に通じてこいさんの心を動かしたのなら有難いけれども多分一場いちじょうの笑い草にしてやろうという慰なぐさみ半分のいたずらであるとしか思えなかったしそれに人前で聴かせるほどの自信もなかった。しかし聴こうと云い出したからはいかに辞退しても許すはずのない春琴である上に母親や姉妹たちも好奇心こうきしんに駆かられているのでついに奥の間へ呼び出され独習の結果を披露ひろうすることになったのである彼に取ってはまことに晴れの場面であった。当時佐助は五つ六つの曲をどうやらこなすまでに仕上げていたので知っているだけを皆やってみよと云われるままに度胸を据すえて精限り根限り弾いた「黒髪くろかみ」のようなやさしいものや「茶音頭」のような難曲や素もとより何の順序もなく聞き噛かじりで習ったのであるからいろいろのものを不規則に覚えていたのである鵙屋の家族は佐助が邪推じゃすいしたように笑い草にする積りであったかも知れないが、短時日の独稽古にしてはかんどころも確かなら節廻しも出来ていることが分って聴いた後には皆感心した

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春琴伝に曰く「時に春琴は佐助が志を憐み、汝なんじの熱心に賞めでて以後は妾わらわが教えて取らせん、汝余暇よかあらば常に妾を師と頼みて稽古を励むべしと云い、春琴の父安左衛門もついにこれを許しければ佐助は天にも昇のぼる心地して丁稚の業務に服する傍かたわら日々一定の時間を限り指南を仰ぐこととはなりぬ。かくて十一歳の少女と十五歳の少年とは主従の上に今また師弟の契ちぎりを結びたるぞ目出度めでたき」と。気むずかしやの春琴が佐助に対して突然とつぜんかかる温情を示したのはなぜであったろうか実は春琴の発意ではなく周囲の者がそう仕向けたのであるともいう。思うに盲目の少女は幸福な家庭にあってもややもすれば孤独こどくに陥おちいり易やすく憂鬱ゆううつになりがちであるから親たちはもちろん下々しもじもの女中共まで彼女の取扱とりあつかいに困り、何とかして心を慰め気を晴らさせる術もあらばと苦慮くりょしていた矢先たまたま佐助が彼女と趣味を同じゅうすることを知ったのである。大方こいさんの我わが儘ままに手を焼いていた奥の奉公人たちは佐助にお相手役をなすり付けて少しでも自分たちの荷を軽くしようという考から、何と佐助どんは奇特なものではござりませぬかあれをせっかくこいさんが仕込んでおやりなされましたらどうでござります定めし本人も冥加みょうがに余り喜ぶことでござりましょうなどと水を向けたのではなかったであろうか。ただし下手へたにおだてるとツムジを曲げる春琴であるから必ずしも周囲の仕向けに乗せられたのではないかも知れぬさすがに彼女もこの時に至って佐助を憎にくからず思うようになり心の奥底に春水の湧わき出づるものがあったのかも知れぬ。何にしても彼女が佐助を弟子に持とうと云い出してくれたのは親兄弟や奉公人共に取って有難いことだったいくら天才児だと云っても十一歳の女師匠が果して人を教えることが出来るかどうかは問う所でない、ただそういう風にして彼女の退屈たいくつが紛まぎれてくれれば端はたの者が助かる云わば「学校ごッこ」のような遊戯ゆうぎをあてがい佐助にお相手を命じたのである。だから佐助のためよりも春琴のために計らったことなのであるが結果から見れば佐助の方が遥はるかに多く恩沢おんたくに浴した。伝には「丁稚の業務に服する傍かたわら日々一定の時間を限り」とあるけれども今まででも毎日手曳きを勤め一日の中うちの何時間かはこいさんに仕えていたのであるその上こいさんの部屋へ呼ばれて音楽の授業を受けたとすると店の仕事を顧かえりみる暇はなかったであろう。安左衛門は商人に仕立てる積りで預かった子を娘の守もりにしてしまっては国元の親たちに済まぬという心づかいもあったらしいが丁稚一人の将来よりも春琴の機嫌を取る方が大切であったし佐助自身もそれを望んでいる以上、また当分はそうして置いてもと黙許もっきょの形になったのであろうと思われる。佐助が春琴を「お師匠様」と呼び出したのはこの時からであって常には「こいさん」と呼んでよいが授業の間は必ずそう呼ぶように春琴が命じたそして彼女も「佐助どん」と云わずに「佐助」と云い、すべて春松検校がその内弟子を遇ぐうする様を真似厳重げんじゅうに師弟の礼を執とらせたかくして大人おとなたちの企図したごとくたわいのない「学校ごッこ」が続けられ春琴もそれに紛まぎれて孤独こどくを忘れていたのであるが、二人はその後月を重ね年を経ても一向この遊戯を中止する模様がなかったかえって二三年後には教える方も教えられる方も次第に遊戯の域いきを脱して真剣しんけんになった。春琴の日課は午後二時頃に靱うつぼの検校の家へ出かけて三十分ないし一時間稽古を授かり帰宅後日の暮れまで習って来たものを練習する。さて夕食を済ませてから時々気が向いた折に佐助を二階の居間へ招いて教授するそれがついには毎日欠かさず教えるようになりどうかすると九時十時に至ってもなお許さず、「佐助、わてそんなこと教おせたか」「あかん、あかん、弾けるまで夜通しかかったかて遣やりや」と激しく叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)しったする声がしばしば階下の奉公人共を驚おどろかした時によるとこの幼い女師匠は「阿呆あほう、何で覚えられへんねん」と罵ののしりながら撥ばちをもって頭を殴なぐり弟子がしくしく泣き出すことも珍めずらしくなかった

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昔は遊芸を仕込むにも火の出るような凄すさまじい稽古をつけ往々おうおう弟子に体刑たいけいを加えることがあったのは人のよく知る通りである本年〔昭和八年〕二月十二日の大阪朝日新聞日曜のページに「人形浄瑠璃じょうるりの血まみれ修業」と題して小倉敬二君が書いている記事を見るに、摂津大掾せっつのだいじょう亡き後の名人三代目越路太夫こしじだゆうの眉間みけんには大きな傷痕きずあとが三日月型に残っていたそれは師匠豊沢団七から「いつになったら覚えるのか」と撥で突き倒された記念であるというまた文楽座の人形使い吉田玉次郎の後頭部にも同じような傷痕がある玉次郎若かりし頃「阿波あわの鳴門なると」で彼の師匠の大名人吉田玉造が捕とり物ものの場の十郎兵衛を使い玉次郎がその人形の足を使った、その時キット極きまるべき十郎兵衛の足がいかにしても師匠玉造の気に入るように使えない「阿呆め」というなり立廻りに使っていた本身ほんみの刀でいきなり後頭部をガンとやられたその刀痕が今も消えずにいるのである。しかも玉次郎を殴なぐった玉造もかつて師匠金四のために十郎兵衛の人形をもって頭を叩き割られ人形が血で真赤まっかに染そまった。彼はその血だらけになって砕くだけ飛んだ人形の足を師匠に請こうて貰い受け真綿にくるみ白木の箱に収めて、時々取り出しては慈母じぼの霊前れいぜんに額ぬかずくがごとく礼拝した「この人形の折檻せっかんがなかったら自分は一生凡々ぼんぼんたる芸人の末で終ったかも知れない」としばしば泣いて人に語った。先代大隅太夫おおすみだゆうは修業時代には一見牛のように鈍重どんじゅうで「のろま」と呼ばれていたが彼の師匠は有名な豊沢団平俗に「大団平」と云われる近代の三味線の巨匠きょしょうであったある時蒸し暑い真夏の夜にこの大隅が師匠の家で木下蔭挟合戦このしたかげはざまがっせんの「壬生みぶ村」を稽古してもらっていると「守まもり袋ぶくろは遺品ぞと」というくだりがどうしても巧うまく語れない遣やり直し遣り直して何遍なんべん繰り返してもよいと云ってくれない師匠団平は蚊帳かやを吊つって中に這入って聴きいている大隅は蚊かに血を吸われつつ百遍、二百遍、三百遍と際限もなく繰り返しているうちに早や夏の夜の明け易やすくあたりが白み初めて来て師匠もいつかくたびれたのであろう寝入ねいってしまったようであるそれでも「よし」と云ってくれないうちはと「のろま」の特色を発揮はっきしてどこまでも一生懸命けんめい根気よく遣り直し遣り直して語っているとやがて「出来た」と蚊帳の中から団平の声、寝入ったように見えた師匠はまんじりともせずに聴いていてくれたのであるおよそかくのごとき逸話いつわは枚挙に遑いとまなくあえて浄瑠璃の太夫や人形使いに限ったことではない生田いくた流の琴や三味線の伝授においても同様であったそれにこの方の師匠は大概たいがい盲人の検校であったから不具者の常として片意地な人が多く勢い苛酷かこくに走った傾かたむきがないでもあるまい。春琴の師匠春松検校の教授法もつとに厳格をもって聞えていたことは前述のごとくややもすれば怒罵どばが飛び手が伸びた教える方も盲人なら教わる方も盲人の場合が多かったので師匠に叱しかられたり打たれたりする度に少しずつ後ずさりをし、ついに三味線を抱かかえたまま中二階の段梯子だんばしごを転げ落ちるような騒さわぎも起った。後日春琴が琴曲指南の看板を掲かかげ弟子を取るようになってから稽古振けいこぶりの峻烈しゅんれつをもって鳴らしたのもやはり先師の方法を蹈襲とうしゅうしたのであり由来する所がある訳なのだが、それは佐助を教えた時代から既すでに萌きざしていたのであるすなわち幼い女師匠の遊戯ゆうぎから始まり次第に本物に進化したのである。あるいは云う男の師匠が弟子を折檻する例は多々あるけれども女だてらに男の弟子を打ったり殴なぐったりしたという春琴のごときは他に類が少いこれをもって思うに幾分嗜虐性しぎゃくせいの傾向があったのではないか稽古に事寄せて一種変態な性慾せいよく的快味を享楽きょうらくしていたのではないかと。果してしかるや否いなや今日において断定を下すことは困難であるただ明白な一事は、子供がままごと遊びをする時は必ず大人おとなの真似をするされば彼女も自分は検校に愛せられていたのでかつて己おのれの肉体に痛棒つうぼうを喫きっしたことはないが日頃の師匠の流儀りゅうぎを知り師たる者はあのようにするのが本来であると幼心に合点がてんして、遊戯ゆうぎの際に早くも検校の真似をするに至ったのは自然の数すうでありそれが昂こうじて習い性となったのであろう

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佐助は泣き虫であったものかこいさんに打たれる度にいつも泣いたというそれがまことに意気地なくひいひいと声を挙げるので「またこいさんの折檻せっかんが始まった」と端はたの者は眉まゆをひそめた。最初こいさんに遊戯をあてがった積りの大人たちもここに至ってすこぶる当惑とうわくした毎夜おそくまで琴や三味線の音が聞えるのさえやかましいのに間々まま春琴の激はげしい語調で叱り飛ばす声が加わりその上に佐助の泣く声が夜の更ふけるまで耳についたりするのであるあれでは佐助どんも可哀かわいそうだし第一こいさんのためにならぬと女中の誰彼だれかれが見るに見かねて稽古の現場へ割って這入はいりとうさんまあ何という事でんの姫御前ひめごぜのあられもない男の児こにえらいことしやはりまんねんなあと止めだてでもすると春琴はかえって粛然しゅくぜんと襟えりを正してあんた等ら知ったこッちゃない放ほッといてと威丈高いたけだかになって云ったわてほんまに教おせてやってるねんで、遊びごッちゃないねん佐助のためを思やこそ一生懸命になってるねんどれくらい怒おこったかていじめたかて稽古は稽古やないかいな、あんた等知らんのか。これを春琴伝は記して汝等なんじら妾わらわを少女と侮あなどりあえて芸道の神聖を冒おかさんとするや、たとい幼少なりとていやしくも人に教うる以上師たる者には師の道あり、妾が佐助に技を授くるはもとより一時の児戯じぎにあらず、佐助は生来音曲を好めども丁稚でっちの身として立派なる検校にも就つく能あたわず独習するが不憫ふびんさに、未熟みじゅくながらも妾が代りて師匠となりいかにもして彼が望みを達せしめんと欲する也なり、汝等が知る所に非あらず疾とくこの場を去るべしと毅然きぜんとして云い放ちければ、聞く者その威容いように怖おそれ弁舌に驚おどろき這々ほうほうの体ていにて引き退さがるを常としたりきと云っているもって春琴の勢い込んだ剣幕けんまくを想像することが出来よう。佐助も泣きはしたけれども彼女のそういう言葉を聞いては無限の感謝を捧ささげたのであった彼の泣くのは辛つらさを怺こらえるのみにあらず主とも師匠とも頼む少女の激励げきれいに対する有難涙ありがたなみだも籠こもっていた故ゆえにどんな痛い目に遭あっても逃にげはしなかった泣きながら最後まで忍耐にんたいし「よし」と云われるまで練習した。春琴は日によって機嫌のよい時と悪い時とがあり口やかましく叱言こごとを云うのはまだよい方で黙って眉まゆを顰ひそめたまま三の絃いとをぴんと強く鳴らしたりまたは佐助一人に三味線を弾かせ可否を云わずにじっと聴いていたりするそんな時こそ佐助は最も泣かされた。ある晩のこと茶音頭の手事てごとを稽古していると佐助の呑のみ込こみが悪くてなかなか覚えない幾度いくどやっても間違えるのに業を煮にやして例のごとく自分は三味線を下に置き、やあチリチリガン、チリチリガン、チリガンチリガンチリガーチテン、トツントツンルン、やあルルトンと右手で激しく膝ひざを叩たたきながら口三味線で教えていたがついには黙然もくねんとして突つっ放ぱなしてしまった。佐助は取り着く嶋しまもなくさればと云って止やめる訳わけにも行かず何とか彼かとか独りで考えては弾いているといつまで立ってもよいと云ってくれないそうなると逆上してますますトチリ出す体中に冷汗ひやあせが湧わく何が何やら出鱈目でたらめを弾くばかりであるしかも春琴は寂然じゃくねんとして一層唇くちびるを固く閉じ眉根に深く刻んだ皺しわをピクリともさせないかくのごときこと二時間以上に及んだ頃母親のしげ女が寝間着姿で上って来て、熱心にも程がある度が過ぎては体に毒だからと宥なだめるようにして二人を引き分けた。明くる日春琴は両親の前へ呼び出されてそなたが佐助に教えてやる親切は結構だけれども弟子を罵ののしったり打ったりするのは人も許し我も許す検校さんのすること也なりそなたはいかに上手と云っても自分がまだお師匠さんに習っているのに今からそんな真似をしては必ず慢心の基もとになろうおよそ芸事は慢心したら上達はしませぬ、あまつさえ女の身として男を捉とらえ阿呆あほうなどと口汚くちぎたなく云うのは聞辛ききづらしあれだけはなにとぞ慎つつしんで下されもうこれからは時間を定めて夜が更ふけぬうちに止やめたがよい佐助のひいひい泣く声が耳について皆が寝られないで困りますと、ついぞ叱言をいったことのない父と母とが懇ねんごろに説諭せつゆしたのでさすがの春琴も返す言葉がなく道理に服した体ていであったがそれも表面だけのことで実際は余り利き目がなかった。佐助は何という意気地なしぞ男の癖くせに些細ささいなことに怺こらえ性しょうもなく声を立てて泣く故ゆえにさも仰山ぎょうさんらしく聞えお蔭かげで私が叱られた、芸道に精進しょうじんせんとならば痛さ骨身にこたえるとも歯を喰くいしばって堪たえ忍しのぶがよいそれが出来ないなら私も師匠を断りますとかえって佐助に嫌味いやみを云った爾来じらい佐助はどんなに辛くとも決して声を立てなかった

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鵙屋もずやの夫婦は娘春琴が失明以来だんだん意地悪になるのに加えて稽古が始まってから粗暴そぼうな振舞ふるまいさえするようになったのを少からず案じていたらしいまことに娘が佐助という相手を得たことは善よし悪あしであった佐助が彼女の機嫌を取ってくれるのは有難ありがたいけれども何事もご無理ごもっともで通す所から次第に娘を増長させる結果になり将来どんなに根性のひねくれた女が出来るかも知れぬと密ひそかに胸を痛めたのであろう。それかあらぬか佐助は十八歳の冬から改めて主人の計らいに依って春松検校の門に這入はいったすなわち春琴が直接教授することを封ふうじてしまったのである。これは親達の考かんがえでは娘が師匠の真似まねをするのが最も悪い何よりも娘の品性に良からぬ影響を与えると見たからであったろうが同時に佐助の運命もこの時に決した訳であるこの時以来佐助は完全に丁稚の任務を解かれ名実共に春琴の手曳てびきとしてまた相弟子あいでしとして検校の家へ通うようになった。本人がそれを望んだのは云うまでもないとして安左衛門も大いに国元の親達を説き付け諒解りょうかいを得るように努めた商人になる目的を放棄ほうきさせる代りには行末ゆくすえのことを保証し必ず捨てて置かぬからとそこは言葉を尽したものと察せられる。按あんずるに安左衛門夫婦は春琴のために慮おもんぱかって佐助を婿むこに貰もらったらと云う意志が動いていたのであろう不具の娘であってみれば対等の結婚はむずかしい佐助ならば願ってもない良縁りょうえんであると思うのも無理からぬ所である。しこうしてその翌々年すなわち春琴十六歳佐助二十歳の時始めて親達は結婚のことを諷ふうしたのであったが意外にも彼女はにべもなく峻拒しゅんきょした自分は一生夫を持つ気はない殊ことに佐助などとは思いも寄らぬと甚はなはだしい不機嫌であったしかるに何ぞ図はからんそれより一年を経て春琴の体にただならぬ様子が見えることを母親が感づいたのであるまさかとは思ったけれども内々気を付けてみるとどうも怪あやしい、人眼ひとめに立つようになってからでは奉公人の口がうるさい今のうちならとかく繕つくろう道もあろうと父親にも知らせずそっと当人に尋たずねるとそんな覚えはさらさらないと云う深くも追及しかねるので腑ふに落ちないながら一箇月いっかげつほど捨てておくうちにもはや事実を蔽おおい隠かくせぬまでになった。今度は春琴は素直に妊娠にんしんを認めたがいかに聞かれても相手を云わない強いて問とい詰つめるとお互たがいに名を云わぬ約束やくそくをしたと云う佐助かと云えば何であのような丁稚風情ふぜいにと頭から否定した。誰しも一往佐助に疑いを持って行くところであるけれども親たちにしても去年の春琴の言葉があるのでよもやと思ったのであるそれにそう云う関係があればなかなか人前を隠し切れぬもの、経験の浅い少女と少年がどんなに平気を装よそおっても嗅かぎ付かれずにはいないものだが佐助が同門の後輩こうはいとなってからは以前のように夜更けるまで対坐たいざする機会もなく時折兄弟子の格式をもっておさらいをしてやるぐらいなものその他の時はどこまでも気位の高いこいさんであって、佐助を遇ぐうするに手曳き以上の扱あつかいはしていないようなので奉公人共も二人の間に間違いがあろうとは思っても見なかったむしろ主従の区別が有り過ぎ情味が乏とぼしいほどに思えた。しかし佐助に聞いたらば様子が知れよう相手はきっと検校の門下生であろうと見当をつけたが佐助も知らぬ存ぜぬの一点張りで、自分の身に覚えのないのはもちろん誰といって心あたりもないと云う。けれどもこの時御寮人ごりょうにんの前へ呼ばれた佐助の態度がオドオドして胡散臭うさんくさいのに不審が加わり問とい詰つめて行くと辻褄つじつまの合わないことが出て来て実はそれを申しましてはこいさんに叱しかられますからと泣き出してしまった。いやいやこいさんを庇かばうのはよいが主人の云い付けをなぜ聴かぬ隠し立てをしてはかえってこいさんのためになりませぬ是非ぜひ相手の名を云ってごらんと口を酸すッぱくしても云わぬそれでも結局のところ相手はやはり当の本人の佐助であることが言外げんがいに酌くみ取れた決して白状しませぬとこいさんに約束した手前を恐おそれて明瞭めいりょうには云わないのだがそれを察してもらいたそうに云うのであった。鵙屋夫婦は出来てしまったことは仕方がないしまあまあ佐助だったのはよかったそのくらいなら去年縁組えんぐみをすすめた時なぜあのような心にもないことを云ったのやら娘気むすめぎというものはたわいのないものと愁うれいのうちにも安堵あんどの胸をさすり、この上は人の口の端はにかからぬうち早く一緒にさせる方がと改めて春琴に持ちかけてみると、またしてもそんな話はいやでござります去年も申しましたように佐助などとは考えてもみませぬこと、私の身を不憫ふびんがって下さいますのは忝かたじけのうござりますがいかに不自由な体なればとて奉公人を婿むこに持とうとまでは思いませぬお腹なかの子の父親に対しても済まぬことでござりますと顔色を変えて云うのであるではそのお腹の子の父親はと聞けばそればかりは尋たずねないで下さりませどうでその人に添そう積りはござりませぬという。そうなるとまた佐助の言葉がアヤフヤに思えどちらの云うことが本当やらさっぱり訳が分らなくなり困こうじ果てたが佐助以外に相手があろうとも考えられず今となってはきまりが悪いのでわざと反対なことを云うのであろうそのうちには本音を吐はくであろうともうそれ以上の詮議せんぎは止やめて取敢とりあえず身二みふたつになるまで有馬へ湯治とうじにやることにした。それは春琴が十七歳の五月で佐助は大阪に居残り女中二人が附き添って十月まで有馬に滞在たいざいし目出度めでたく男の子を生んだその赤あかん坊ぼうの顔が佐助に瓜うり二つであったとやらでようやく謎なぞが解けたようなものの、それでも春琴は縁組の相談に耳を借さないのみならずいまだに佐助が赤児あかごの父親であることを否定する拠よん所どころなく二人を対決させてみると春琴は屹きっとなり佐助どん何なんぞ疑ぐられるようなこと云うたんと違うかわてが迷惑めいわくするよって身に覚えのないことはないとはっきり明りを立ててほしいと云う釘くぎを打たれて佐助はひと縮みに縮み上り仮りにも御主のとうさんを滅相めっそうなことでござります、子飼こがいの時より一方ひとかたならぬ大恩を受けながらそのような身の程知らずの不料簡ふりょうけんは起しませぬ思いも寄らぬ濡ぬれ衣ぎぬでござりますと今度は春琴に口を合わせ徹頭徹尾てっとうてつび否認するのでいよいよ埒らちが明かなくなった。それでも生れた子が可愛かわいくはないかそなたがそんなに強情を張るなら父ててなし児ごを育てる訳には行かぬ断たって縁組みが厭いやだとあれば可哀かわいそうでも嬰児ややこはどこぞへくれてやるより仕方がないがと子を枷かせにして詰つめ寄るとなにとぞどこへなとお遣やりなされて下さりませ一生独り身で暮くらす私に足手まといでござりますと涼すずしい顔つきで云うのである

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この時春琴が生んだ子はよそへ貰もらわれて行ったのである弘化こうか二年の生れに当るから今日存命しているとも思われないし貰われて行った先も知れていないいずれ両親がしかるべく処置したのであろう。そんな訳でとうとう春琴は我がを張り通し妊娠にんしんの一件を有耶無耶うやむやに葬ほうむってまたいつの間まにか平気な顔で佐助に手曳てびきさせながら稽古に通っていたもうその時分彼女と佐助との関係はほとんど公然の秘密になっていたらしいそれを正式にさせようとすれば当人たちがあくまで否認するものだから、娘の気象を知っている親達はやむをえず黙許もっきょの形にしておいたと見えるかくして主従とも相弟子とも恋仲こいなかともつかぬ曖昧あいまいな状態が二三年つづいた後春琴二十歳の時春松検校が死去したのを機会に独立して師匠の看板を掲かかげることになり親の家を出て淀屋橋よどやばし筋に一戸いっこを構えた同時に佐助も附ついて行ったのである。けだし彼女は検校の生前すでに実力を認められいつにても独立して差支さしつかえないよう許可を得ていたことと思われる検校は己おのれの名の一字を取って彼女に春琴という名を与え晴れの演奏の時しばしば彼女と合奏したり高い所を唄うたわせたりして常に引き立ててやっていたされば検校亡なき後に門戸もんこを構えるに至ったのは当然であるかも知れぬ。しかし彼女の年齢ねんれい境遇きょうぐう等に照らしにわかに独立する必要があったろうとは考えられないこれは恐らく佐助との関係を慮おもんぱかったのであろうというのは、もはや公然の秘密になっている二人をいつまで曖昧あいまいな状態に置いては奉公人共どもの示しが付かずせめて一軒けんの家に同棲どうせいさせるという方法を取ったので春琴自身もその程度ならあえて不服はなかったのであろう。もちろん佐助は淀屋橋へ行ってからも少しも前と異った扱あつかいはされなかったやはりどこまでも手曳きであったその上検校が死んだので再び春琴に師事することになり今は誰に遠慮えんりょもなく「お師匠様」と呼び「佐助」と呼ばれた。春琴は佐助と夫婦らしく見られるのを厭いとうこと甚はなはだしく主従の礼儀れいぎ師弟の差別を厳格にして言葉づかいの端々はしばしに至るまでやかましく云い方を規定したまたまそれに悖もとることがあれば平身低頭して詑あやまっても容易に赦ゆるさず執拗しつようにその無礼を責めた。故ゆえに様子を知らない新参の入門者は二人の間を疑う由よしもなかったというまた鵙屋の奉公人共はあれでこいさんはどんな顔をして佐助どんを口説くどくのだろうこっそり立ち聴ぎきしてやりたいと蔭口かげぐちを云ったというなぜ春琴は佐助を待つことかくのごとくであったか。ただし大阪は今日でも婚礼こんれいに家柄いえがらや資産や格式などを云々うんぬんすること東京以上であり元来町人の見識の高い土地であるから封建ほうけんの世の風習は思いやられる従って旧家の令嬢れいじょうとしての衿恃きょうじを捨てぬ春琴のような娘が代々の家来筋に当る佐助を低く見下みくだしたことは想像以上であったであろう。また盲目の僻ひがみもあって人に弱味を見せまい馬鹿ばかにされまいとの負けじ魂だましいも燃えていたであろう。とすれば佐助を我が夫として迎むかえるなど全く己れを侮辱ぶじょくすることだと考えたかも知れぬよろしくこの辺の事情を察すべきであるつまり目下めしたの人間と肉体の縁を結んだことを恥はずる心があり反動的によそよそしくしたのであろう。しからば春琴の佐助を見ること生理的必要品以上に出でなかったであろうか多分意識的にはそうであったかと思われる

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伝に曰いわく「春琴居常潔癖けっぺきにしていささかにても垢あか着きたる物を纏まとわず、肌着はだぎ類は毎日取換とりかえて洗濯せんたくを命じたりき。また朝夕に部屋の掃除そうじを励行れいこうせしむること厳密を極め、坐ざするごとに一々指頭をもって座布団ざぶとん畳たたみ等の表面を撫なで試み毫釐ごうりの塵埃じんあいをも厭いといたりき。かつて門弟の胃を病む者あり、口中に臭気しゅうきあるを悟さとらず師の前に出でて稽古しけるに、春琴例のごとく三の絃いとを鏗然こうぜんと弾はじきてそのまま三味線を置き、顰蹙ひんしゅくして一語を発せず、門弟為なす所を知らずして恐る恐る理由を問うこと再三に及びし時、妾は盲人なれども鼻は確たしかなり、※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々そうそうに去って含嗽がんそうをせよと云いしとぞ」と。盲人なるが故にかくのごとく潔癖だったのでもあろうがまたこういう人が盲人であったとすると身の周りの世話をする者の心づかいは推量に余る。手曳きという役は手を曳くばかりが受け持ちではない飲食起臥きが入浴上厠じょうし等日常生活の些事さじに亘わたって面倒を見なければならぬしこうして佐助は春琴の幼時よりこれらの任務を担当し性癖せいへきを呑のみ込こんでいたので彼でなければ到底気に入るようには行かなかった佐助はむしろこの意味において春琴に取り欠くべからざる存在であった。それに道修町の時分にはまだ両親や兄弟達へ気がねがあったけれども一戸の主あるじとなってからは潔癖と我わが儘ままが募つのる一方で佐助の用事はますます煩多はんたを加えたのであるこれは鴫沢しぎさわてる女の話でさすがに伝には記してないが、お師匠様は厠から出ていらしっても手をお洗いになったことがなかったなぜなら用をお足しになるのにご自分の手は一遍いっぺんもお使いにならない何から何まで佐助どんがして上げた入浴の時もそうであった高貴の婦人は平気で体じゅうを人に洗わせて羞恥しゅうちということを知らぬというがお師匠様も佐助どんに対しては高貴の婦人と選ぶ所はなかったそれは盲目のせいもあろうが幼い時からそういう習慣に馴なれていたので今更何の感情も起らなかったのかも知れない。彼女はまた非常にお洒落しゃれであった失明以来鏡を覗のぞいたことはなくとも己れの容色については並々ならぬ自信があり衣類や髪飾かみかざりの配合等に苦労することは眼明きと同じであった思うに記憶力きおくりょくの強い彼女は九歳の時の己れの顔立ちを長く覚えていたであろうしその上世間の評判や人々のお世辞が始終耳に這入るので自分の器量のすぐれていることはよく承知していたのであるされば化粧けしょうに浮身うきみを窶やつすことは大抵たいていでなかった。常に鶯うぐいすを飼っていて糞ふんを糠ぬかに交まぜて使いまた糸瓜へちまの水を珍重ちんちょうし顔や手足がつるつる滑すべるようでなければ気持を悪がり地肌の荒あれるのを最も忌いんだ総すべて絃楽器を弾く者は絃を押おさえる必要上左手の指の爪つめの生はえ加減を気にするものだが必ず三日目ごとに爪を剪きらせ鑢やすりをかけさせたそれが左の手ばかりでなく両手両足に及んだ剪ると云ってもほとんど眼に見えて伸のびていないわずかに一厘りん二厘に過ぎないのをいつも同じ恰好かっこうに正確に剪るように命じ剪った痕あとを一つ一つ手でさぐって見て少しでも狂くるいがあることを許さなかった佐助は実にこのような世話を一人で引き請うけ合間にはまた稽古をしてもらい時にはお師匠様に代って後進の弟子達に教えもした

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肉体の関係ということにもいろいろある佐助のごときは春琴の肉体の巨細こさいを知り悉つくして剰あます所なきに至り月並の夫婦関係や恋愛関係の夢想むそうだもしない密接な縁を結んだのである後年彼が己おのれもまた盲目になりながらなおよく春琴の身辺に奉仕して大過なきを得たのは偶然でない。佐助は一生妻妾を娶めとらず丁稚時代より八十三歳の老後まで春琴以外に一人の異性をも知らずに終り他の婦人に比べてどうのこうのと云う資格はないけれども晩年鰥やもめ暮らしをするようになってから常に春琴の皮膚ひふが世にも滑なめらかで四肢ししが柔軟じゅうなんであったことを左右の人に誇ほこって已やまずそればかりが唯一の老いの繰くり言ごとであったしばしば掌てのひらを伸べてお師匠様の足はちょうどこの手の上へ載のるほどであったと云い、また我が頬ほおを撫なでながら踵かかとの肉でさえ己のここよりはすべすべして柔やわらかであったと云った。彼女が小柄だったことは前に書いたが体は着痩きやせのする方で裸体らたいの時は肉づきが思いの外ほか豊かに色が抜ぬけるほど白く幾つになっても肌はだに若々しいつやがあった平素魚鳥の料理を好み分けても鯛たいの造りが好物で当時の婦人としては驚おどろくべき美食家であり酒も少々は嗜たしなんで晩酌ばんしゃくに一合は欠かさなかったと云うからそんなことが関係していたかも知れない〔盲人が物を食う時はさもしそうに見え気の毒な感じを催もよおすものであるまして妙齢みょうれいの美女の盲人においてをや春琴はそれを知ってか知らずか佐助以外の者に飲食の態を見られるのを嫌きらった客に招かれた時なぞはほんの形式に箸はしを取るのみであったから至ってお上品のように思われたけれども内実は食べ物に贅ぜいを尽つくしたもっとも大食というのではない飯は軽く二杯たべおかずも一ひと箸ずついろいろの皿へ手をつけるので品数が多くなり給仕に手数のかかることは大抵でなかったまるで佐助を困らせるのが目的のように思えるほどだった。佐助は鯛のあら煮にの身をむしること蟹蝦かにえび等の殻からを剥はぐことが上手じょうずになり鮎あゆなどは姿を崩くずさずに尾の所から骨を綺麗きれいに抜ぬき取った〕頭髪とうはつもまた非常に多量で真綿のごとく柔くふわふわしていた手は華車きゃしゃで掌がよく撓しない絃を扱うせいか指先に力があり平手で頬を撲うたれると相当に痛かった。すこぶる上気のぼせ性の癖くせにまたすこぶる冷え性で盛夏せいかといえどもかつて肌に汗あせを知らず足は氷のようにつめたく四季を通じて厚い※(「ころもへん+施のつくり」、第3水準1-91-72)綿ふきわたの這入はいった羽二重はぶたえもしくは縮緬ちりめんの小袖こそでを寝間着に用い裾すそを長く曳いたまま着て両足を十分に包んで寝いねそれで少しも寝姿が乱れなかった。上気することを恐れるためなるべく炬燵こたつや湯たんぽを用いず余り冷えると佐助が両足を懐ふところに抱いて温ぬくめたがそれでも容易に温もらず佐助の胸がかえって冷え切ってしまうのであった入浴の時は湯殿ゆどのに湯気ゆげが籠こもらぬように冬でも窓を開あけ放ち微温湯ぬるまゆに一二分間ずつ何回にも漬つかるようにした長湯をすると直じきに動悸どうきがして湯気に上りそうになるので出来るだけ短時間に煖あたたまり大急ぎで体を洗わねばならぬかくのごときことを知れば知るほど佐助の労苦真まことに察すべしである。しかも物質的に報いられる所は甚はなはだ薄うすく給料等も時々の手当てに過ぎず煙草銭たばこせんにも窮きゅうすることがあり衣類は盆暮ぼんくれに仕着せを貰うだけであった師匠の代稽古はするけれども特別の地位は認められず門弟や女中共は彼を「佐助どん」と呼ぶように命ぜられ出稽古の供をする時は玄関先で待たされた。ある時佐助齲歯むしばを病み右の頬が夥おびただしく脹はれ上り夜に入ってから苦痛堪たえ難きほどであったのを強しいて怺こらえて色に表わさず折々そっと合嗽うがいをして息がかからぬように注意しながら仕えているとやがて春琴は寝床に這入って肩を揉もめ腰こしをさすれと云う云われるままにしばらく按摩あんましているともうよいから足を温ぬくめよと云う畏かしこまって裾の方に横臥おうがし懐を開いて彼女の蹠あしのうらを我が胸板の上に載のせたが胸が氷のごとく冷えるのに反し顔は寝床ねどこのいきれのためにかっかっと火照ほてって歯痛がいよいよ激はげしくなるのに溜たまりかね、胸の代りに脹れた頬を蹠へあてて辛かろうじて凌しのいでいるとたちまち春琴がいやと云うほどその頬を蹴けったので佐助は覚えずあっと云って飛び上った。すると春琴が曰いわくもう温めてくれぬでもよい胸で温めよとは云うたが顔で温めよとは云わなんだ蹠に眼のなきことは眼明きも盲人も変りはないに何とて人を欺あざむかんとはするぞ汝なんじが歯を病んでいるらしきは大方昼間の様子にても知れたりかつ右の頬と左の頬と熱も違えば脹れ加減も違うことは蹠にてもよく分るなりさほど苦しくば正直に云うたらよろしからん妾とても召使めしつかいを労いたわる道を知らざるにあらずしかるにいかにも忠義らしく装いながら主人の体をもって歯を冷やすとは大それた横着者おうちゃくものかなその心底憎にくさも憎しと。春琴の佐助を遇ぐうすることおおよそこの類であった分けても彼が年若い女弟子に親切にしたり稽古してやったりするのを懌よろこばずたまたまそういう疑いがあると嫉妬しっとを露骨ろこつに表わさないだけ一層意地の悪い当り方をしたそんな場合に佐助は最も苦しめられた

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女で盲目で独身であれば贅沢ぜいたくと云っても限度があり美衣美食をほしいままにしてもたかが知れているしかし春琴の家には主あるじ一人に奉公人が五六人も使われている月々の生活費も生なまやさしい額ではなかったなぜそんなに金や人手がかかったと云うとその第一の原因は小鳥道楽にあったなかんずく彼女は鶯うぐいすを愛した。今日啼なきごえの優れた鶯は一羽一万円もするのがある往時といえども事情は同じだったであろう。もっとも今日と昔とでは啼きごえの聴き分け方や翫賞がんしょう法が幾分異なるらしいけれどもまず今日の例をもって話せばケッキョ、ケッキョ、ケッキョケッキョと啼なくいわゆる谷渡たにわたりの声ホーキーベカコンと啼くいわゆる高音こうね、ホーホケキョウの地声の外にこの二種類の啼き方をするのが値打ちなのであるこれは藪鶯やぶうぐいすでは啼かないたまたま啼いてもホーキーベカコンと啼かずにホーキーベチャと啼くから汚きたない、ベカコンと、コンと云う金属性の美しい余韻よいんを曳くようにするにはある人為じんい的な手段をもって養成するそれは藪鶯の雛ひなを、まだ尾の生はえぬ時に生いけ捕どって来て別な師匠の鶯に附けて稽古させるのである尾が生えてからだと親の藪鶯の汚い声を覚えてしまうのでもはや矯正きょうせいすることが出来ない。師匠の鶯も元来そう云う風にして人為的に仕込まれた鶯であり有名なのは「鳳凰ほうおう」とか「千代の友」とか云った様にそれぞれ銘めいを持っているさればどこの誰だれ氏の家にはしかじかの名鳥がいると云うことになれば鶯を飼かっている者は我が鶯のために遥々はるばるとその名鳥の許もとを訪ね啼き方を教えてもらうこの稽古を声を附けに行くと云い大抵たいてい早朝に出かけて幾日も続ける。時には師匠の鶯の方から一定の場所に出張し弟子の鶯共がその周囲に集まりあたかも唱歌の教室のごとき観を呈するもちろん箇々ここの鶯によって素質の優劣ゆうれつ声の美醜びしゅうがあり、同じ谷渡りや高音にも節廻ふしまわしの上手下手じょうずへた余韻よいんの長短等さまざまであるから良き鶯を獲とることは容易にあらず獲れば授業料の儲もうけがあるので価の高いのは当然である。春琴は我が家に飼っている一番優秀な鶯に「天鼓てんこ」と云う銘をつけて朝夕その声を聴くのを楽しんだ天鼓の啼く音は実に見事であった高音のコンという音の冴さえて余韻のあることは人工の極致きょくちを尽つくした楽器のようで鳥の声とは思われなかったそれに声の寸が長く張りもあればつやもあったされば天鼓の取り扱いは甚はなはだ鄭重ていちょうで食物のごときも注意に注意を加えさせた普通鶯の擦すり餌えを作るには大豆だいずと玄米げんまいを炒いって粉にした物へ糠ぬかを交まじえて白粉しらこを製し、別に鮒ふなや鮠はえの干ほしたのを粉にした鮒粉ふなこと云うものを用意してこの二つを半々に混じ大根の葉を擦すった汁しるで溶とくなかなか面倒なものであるその外ほか声をよくするためには※(「くさかんむり/嬰」、第4水準2-87-16)※(「くさかんむり/奧」、第4水準2-86-89)えびづるという蔓草つるくさの茎くきの中に巣食すくう昆虫こんちゅうを捕って来て日に一匹ぴきあるいは二匹宛ずつ与えるかくのごとき手数を要する鳥を大概たいがい五六羽は飼育しいくしていたので奉公人の一人か二人はいつもそれに係りきりであった。また鶯は人の見ている前では啼かない籠かごを飼桶こおけという桐きりの箱に入れ障子しょうじを篏はめて密閉し紙の外からほんのり明りがさすようにするこの飼桶の障子には紫檀したん黒檀などを用いて精巧せいこうな彫刻ちょうこくを施ほどこしたりあるいは蝶貝ちょうがいを鏤ちりばめ蒔絵まきえを描えがいたりして趣向しゅこうを凝こらし中には骨董品こっとうひんなどもあって今日でも百円二百円五百円などと云う高価なのが珍めずらしくない天鼓の飼桶には支那から舶載はくさいしたという逸品いっぴんが篏はまっていた骨は紫檀で作られ腰こしに琅※(「王+干」、第3水準1-87-83)ろうかんの翡翠ひすいの板が入れてありそれへ細々こまごまと山水楼閣ろうかくの彫ほりがしてあった誠まことに高雅こうがなものであった。春琴は常に我が居間の床脇とこわきの窓の所にこの箱を据すえて聴きき入り天鼓の美しい声が囀さえずる時は機嫌きげんがよかった故に奉公人共は精々水をかけてやり啼かせるようにした大抵快晴の日の方がよく啼くので天気の悪い日は従って春琴も気むずかしくなった天鼓の啼くのは冬の末より春にかけてが最も頻繁ひんぱんで夏に至ると追い追い回数が少くなり春琴も次第に鬱々うつうつとする日が多かった。いったい鶯は上手に飼えば寿命が長いものだけれどもそれには細心の注意が肝要かんようで経験のない者に任せたら直じき死んでしまう死ねばまた代りの鶯を買う春琴の家でも初代の天鼓は八歳の時に死しその後しばらく二代目を継つぐ名鳥を得られなかったが、数年を経てようやく先代を恥はずかしめぬ鶯を養成しこれを再び天鼓と名づけて愛翫あいがんした「二代目の天鼓もまたその声霊妙れいみょうにして迦陵頻迦かりょうびんがを欺あざむきければ日夕籠を座右ざゆうに置きて鍾愛しょうあいすること大方ならず、常に門弟等らをしてこの鳥の啼く音に耳を傾かたむけしめ、しかる後に諭さとして曰いわく、汝等天鼓の唄うたうを聴け、元来は名もなき鳥の雛なれども幼少より練磨れんまの功空むなしからずしてその声の美なること全く野生の鶯と異れり、人あるいは云わん、かくのごときは人工の美にして天然てんねんの美にあらず、谷深き山路に春を訪ね花を探りて歩く時流れを隔へだつる霞かすみの奥おくに思いも寄らず啼き出でたる藪鶯の声の風雅ふうがなるに如しかずと、しかれども妾は左様には思わず、藪鶯は時と所を得て始めて雅致がちあるように聞ゆるなり、その声を論ずれば未いまだ美なりと云う可べからず、これに反して天鼓のごとき名鳥の囀るを聞けば、居ながらにして幽邃閑寂ゆうすいかんじゃくなる山峡さんきょうの風趣ふうしゅを偲しのび、渓流けいりゅうの響ひびきの潺湲せんかんたるも尾の上の桜さくらの靉靆あいたいたるもことごとく心眼心耳に浮び来り、花も霞かすみもその声の裡うちに備わりて身は紅塵万丈こうじんばんじょうの都門にあるを忘るべし、これ技工をもって天然の風景とその徳を争うものなり音曲おんぎょくの秘訣ひけつもここに在ありと。また鈍根どんこんの子弟を恥はじしめて、小禽しょうきんといえども芸道の秘事を解するにあらずや汝人間に生れながら鳥類にも劣おとれりと叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)しったすることしばしばなりき」なるほど理窟りくつはその通りであるが何かにつけて鶯に比較ひかくされては佐助を始め門弟一同やりきれなかったことであろう

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鶯に次いで愛したものは雲雀ひばりであったこの鳥は天に向って飛揚ひようせんとする習性があり籠の裡うちにあっても常に高く舞まい上るので籠の形も縦たてに細長く造り三尺四尺五尺と云うような丈たけに達する。しかれども雲雀の声を真に賞美するには籠より放ってその姿の見えずなるまで空中に舞い上らせ、雲の奥深く分け入りながら啼く声を地上にあって聞くのであるすなわち雲切りの技を楽しむ。大抵雲雀は一定時間空中に留まった後再び元の籠へ舞まい戻もどって来る空中に留まっている時間は十分ないし二三十分であり長く留まっているほど優秀な雲雀であるとされる故に雲雀の競技会の時には籠を一列に並べて置き同時に戸を開いて空へ放ちやり最後に戻って来たものを勝かちとする。劣等れっとうの雲雀は戻って来る時誤あやまって隣となりの籠へ這入ったり甚しきは一丁も二丁も離れた所へ下りたりするが普通ふつうはちゃんと自分の籠を弁わきまえているけだし雲雀は垂直すいちょくに舞い上り空中の一箇所に留まっていて再び垂直に降下するのであるされば自然と元の籠へ戻るようになる雲切りとは云うけれども雲を切って横に飛ぶのではない雲を切るように見えるのは雲の方が雲雀を掠かすめて飛ぶためである。淀屋橋筋の春琴の家の隣近所に家居かきょする者はうららかな春の日に盲目の女師匠が物干台に立ち出でて雲雀を空に揚あげているのを見かけることが珍めずらしくなかった彼女の傍かたわらにはいつも佐助が侍はべり外ほかに鳥籠の世話をする女中が一人附ついていた女師匠が命ずると女中が籠の戸を開ける雲雀は嬉々ききとしてツンツン啼きながら高く高く昇のぼって行き姿を霞かすみの中に没ぼっする女師匠は見えぬ眼を上げて鳥影とりかげを追いつつやがて雲の間から啼きしきる声が落ちて来るのを一心に聴きき惚ほれている時には同好の人々がめいめい自慢じまんの雲雀を持ち寄って競技に興じていることもある。そういう折に隣近所の人々も自分たちの家の物干に上って雲雀の声を聴かせてもらう中には雲雀よりも別嬪べっぴんの女師匠の顔を見たがる手合もある町内の若い衆などは年中見馴みなれているはずだのに物好きな痴漢ちかんはいつの世にも絶えないもので雲雀の声が聞えるとそれ女師匠が拝めるぞとばかり急いで屋根へ上って行った彼等らがそんなに騒いだのは盲目というところに特別の魅力みりょくと深みを感じ、好奇心をそそられたのであろう平素佐助に手を曳かれて出稽古に赴おもむく時は黙々としてむずかしい表情をしているのに、雲雀を揚げる時は晴れやかに微笑ほほえんだり物を云ったりする様子なので美貌びぼうが生き生きと見えたのでもあろうか。まだこの外ほかにも駒鳥こまどり鸚鵡おうむ目白頬白ほおじろなどを飼ったことがあり時によっていろいろな鳥を五羽も六羽も養っていたそれらの費用は大抵でなかったのである

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彼女はいわゆる内面うちづらの悪い方であった外に出ると思いの外ほか愛想がよく客に招かれた時などは言語動作が至ってしとやかで色気があり家庭で佐助をいじめたり弟子を打ったり罵ののしったりする婦人ふじんとは受け取りかねる風情があったまた附き合いのためには見えを飾かざり派手を喜び祝儀無祝儀ぶしゅうぎ盆暮ぼんくれの贈答ぞうとう等には鵙屋の娘たる格式をもってなかなかの気前を見せ、下男下女おちゃこ駕籠舁かごかき人力車夫等への纏頭てんとうにも思い切った額を弾はずんだ。だがそれならば無鉄砲むてっぽうな浪費家ろうひかであったかと云うのに、断じてそうではなかったらしいかつて作者は「私の見た大阪及び大阪人」と題する篇中に大阪人のつましい生活振ぶりを論じ東京人の贅沢ぜいたくには裏も表もないけれども大阪人はいかに派手好きのように見えても必ず人の気の付かぬ所で冗費じょうひを節し締括しめくくりを附けていることを説いたが春琴も道修町どしょうまちの町家の生れであるどうしてその辺にぬかりがあろうや極端に奢侈しゃしを好む一面極端に吝嗇りんしょくで慾張よくばりであった。もともと派手を競うのは持ち前の負けじ魂に発しているのでその目的に添そわぬ限りは妄みだりに浪費することなくいわゆる死に金を使わなかった気紛きまぐれにぱっぱっと播まき散らすのでなく使途を考え効果を狙ねらったのであるその点は理性的打算的であったさればある場合には負けじ魂がかえって貪慾どんよくに変形し門弟より徴ちょうする月謝やお膝付ひざつきのごとき、女の身としておおよそ他の師匠連との振り合いもあるべきに自ら恃じすることすこぶる高く一流の検校と同等の額を要求して譲ゆずらなかった。そのくらいはまだよいとして弟子共が持って来る中元や歳暮せいぼの付け届け等にまで干渉かんしょうし少しでも多いことを希望して暗々裡あんあんりにその意を諷ふうすること執拗しつようを極めたある時盲人の弟子があり家貧しき故に月々の謝礼も滞とどこおりがちであったが中元に付け届けをすることが出来ず心ばかりに白仙羹はくせんこうをひと折買って来て情を佐助に訴え、なにとぞ私の貧を憐あわれみお師匠様にそこをよろしくお執成とりなし下されお目こぼしを願度ねがいたしと云った。佐助も気の毒に思い恐る恐るその旨むねを取り次いで陳弁ちんべんするとにわかに顔の色を変えて月謝や付け届けをやかましく云うのを慾張りのように思うか知れぬがそんな訳ではない銭金はどうでもよけれど大体の目安を定めて置かなんだら師弟の礼儀というものが成り立たぬ、あの子は毎月の謝礼をさえ怠おこたり今また白仙羹ひと折を中元と称して持参するとは無礼の至り師匠を蔑ないがしろにすると云われても仕方がなかろう、せっかくながらそれほど貧しくては芸道の上達も覚束おぼつかないもちろん事と品によっては無報酬むほうしゅうにて教えてやらぬものでもないがそれは行く末に望みもあり万人に才を惜おしまれるような麒麟児きりんじに限ったこと、貧苦に打ち克かちひと廉かどの名人となる程の者は生れつきから違っているはず根こんと熱心とばかりでは行かぬあの子は厚かましいだけが取柄とりえで芸の方はさして見込みがあろうとも思えず貧を憐んで下されなどとは己惚うぬぼれも甚しい、なまじ人に迷惑めいわくをかけ恥はじを曝さらすよりもうこの道で立つことをふっつりあきらめたがよかろう、それでも習いたいのなら大阪には幾いくらもよい師匠があるどこへなと勝手に弟子入りをしや私の所は今日限り止やめてもらいますこちらから断りますと、云い出したからはいかに詑わび入っても聴き入れずとうとう本当にその弟子を断ってしまった。また余分の付け届けを持って行くとさしも稽古の厳重な彼女もその日一日はその子に対して顔色を和やわらげ心にもない褒ほめ言葉を吐はいたりするので聞く方が気味を悪がりお師匠さんのお世辞と云うと恐ろしいものになっていた。そんな次第故ゆえ諸方からの到来物は一々自ら吟味ぎんみして菓子かしの折まで開けて調べるという風で月々の収入支出等も佐助を呼びつけて珠算盤そろばんを置かせ決算を明かにした彼女は非常に計数に敏さとく暗算が達者であり一度聞いた数字は容易に忘れず米屋の払はらいがいくらいくら酒屋の払いがいくらいくらと二月三月ふたつきみつき前のことまで正確に覚えていた畢竟ひっきょう彼女の贅沢は甚だしく利己的なもので自分が奢おごりに耽ふけるだけどこかで差引をつけなければならぬ結局お鉢はちは奉公人に廻まわった。彼女の家庭では彼女一人が大名のような生活をし佐助以下の召使は極度の節約を強いられるため爪に火を燈ともすようにして暮らしたその日その日の飯めしの減り方まで多いの少いのと云うので食事も十分には摂とれなかったくらいであった奉公人は蔭口かげぐちをきいて、お師匠様は鶯や雲雀の方がお前等らより忠義者だと仰おっしゃるが忠義なのも無理がない、私等よりも鳥の方がずっと大事にされていると云った

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鵙屋もずやの家でも父の安左衛門が生存中は月々春琴の云うがままに仕送ったけれども父親が死んで兄が家督かとくを継いでからはそうそう云うなりにもならなかった。今日でこそ有閑ゆうかん婦人の贅沢はさまで珍しくないようなものの昔は男子でもそうは行かぬ裕福ゆうふくな家でも堅儀かたぎな旧家ほど衣食住の奢おごりを慎つつしみ僭上せんしょうの誹そしりを受けないようにし成り上り者に伍ごするのを嫌きらった春琴に奢侈しゃしを許したのは外ほかに楽しみのない不具の身を憐れんだ親の情であったのだが、兄の代になるととかくの批難ひなんが出て最大限度月に幾何いくばくと額をきめられそれ以上の請求には応じてくれないようになった彼女の吝嗇もそういう事が多分に関係しているらしい。しかしなおかつ生活を支えて余りある金額であったから琴曲の教授などはどうでもよかったに違いなく弟子に対して鼻息の荒かったのも当然である。事実春琴の門を叩たたく者は幾人と数えるほどで寂々寥々じゃくじゃくりょうりょうたるものであったさればこそ小鳥道楽などに耽ふけっている暇ひまがあったのであるただし春琴が生田流の琴においても三絃においても当時大阪第一流の名手であったことは決して彼女の自負のみにあらず公平な者は皆みな認めていた春琴の傲慢ごうまんを憎む者といえども心中私ひそかにその技を妬そねみあるいは恐れていたのである作者の知っている老芸人に青年の頃ころ彼女の三絃をしばしば聴いたという者があるもっともこの人は浄るりの三味線弾きで流儀は自ら違うけれども近年地唄の三味線で春琴のごとき微妙びみょうの音を弄ろうするものを他に聴いたことがないと云うまた団平が若い頃にかつて春琴の演奏を聞き、あわれこの人男子と生れて太棹ふとざおを弾きたらんには天晴あっぱれの名人たらんものをと嘆たんじたという団平の意太棹は三絃芸術の極致にしてしかも男子にあらざればついに奥義おうぎを究むる能あたわずたまたま春琴の天稟てんぴんをもって女子に生れたのを惜おしんだのであろうか、そもそもまた春琴の三絃が男性的であったのに感じたのであろうか。前掲ぜんけいの老芸人の話では春琴の三味線を蔭で聞いていると音締ねじめが冴さえていて男が弾いているように思えた音色も単に美しいのみではなくて変化に富み時には沈痛ちんつうな深みのある音を出したといういかさま女子には珍しい妙手であったらしい。もし春琴が今少し如才じょさいなく人に謙へりくだることを知っていたなら大いにその名が顕あらわれたであろうに富貴ふうきに育って生計の苦難を解せず気随気儘きずいきままに振舞ふるまったために世間から敬遠され、その才の故にかえって四方に敵を作り空むなしく埋うもれ果てたのは自業自得ではあるけれどもまことに不幸と云わねばならぬ。されば春琴の門に入る者はかねてより彼女の実力に服しこの人を措おいて師と頼む者はないと云う風に思い詰め、修業のためには甘あまんじて苛辣からつな鞭撻べんたつを受けよう怒罵どばも打擲ちょうちゃくも辞する所にあらずという覚悟かくごの上で来たのであったがそれでも長く堪たえ忍しのんだ者は少く大抵は辛抱しんぼう出来ずにしまった素人しろうとなどはひと月と続かなかった。按あんずるに春琴の稽古振りが鞭撻の域いきを通り越こして往々意地の悪い折檻せっかんに発展し嗜虐しぎゃく的色彩しきさいをまで帯びるに至ったのは幾分か名人意識も手伝っていたのであろうすなわちそれを世間も許し門弟も覚悟していたのでそうすればするほど名人になったような気がし、だんだん図に乗ってついに自分を制しきれなくなったのである

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鴫沢しぎさわてる女はいう、お弟子さんはほんに少うござりましたが中にはお師匠さんのご器量が目あてで習いに来られるお人もござりました、素人衆は大概そんなのが多かったようでござりますと。美貌で未婚でかつ資産家の娘であったからこれはいかにもありそうに思われる彼女が弟子を遇ぐうすること峻烈しゅんれつであったのはそういう冷やかし半分の狼おおかみ連を撃退げきたいする手段でもあったと云うが皮肉にもそれがかえって人気を呼んだらしくもある邪推じゃすいをすれば真面目まじめな玄人くろうとの門弟の中にも盲目の美女の笞しもとに不思議な快感を味わいつつ芸の修業よりもその方に惹ひき付けられていた者が絶無ではなかったであろう幾人かはジャン・ジャック・ルーソーがいたであろう今や春琴の身に降りかかった第二の災難を叙じょするに際し伝にも明瞭めいりょうな記載きさいを避さけてあるためにその原因や加害者を判然と指摘してきし得ないのが残念であるが、恐らく上記のごとき事情で門弟の何者かに深刻な恨うらみを買いその復讐ふくしゅうを受けたと見るのが最も当っているようである。ここに考えられることは土佐堀とさぼりの雑穀ざっこく商美濃屋九兵衛みのやきゅうべえの忰せがれに利太郎と云うぼんちがあったなかなかの放蕩ほうとう者でかねてより遊芸ゆうげい自慢であったがいつの頃よりか春琴の門に入って琴三味線を習っていたこの者親の身代しんだいを鼻にかけどこへ行っても若旦那わかだんなで通るのをよい事にして威張いばる癖くせがあり同門の子弟を店の番頭手代並みに心得こころえ見下す風があったので春琴も心中面白くなかったけれども、そこは例の附け届けを十分にたっぷり薬を利きかしてあるので断りもならず精々如才じょさいなく扱あつかっていた。しかるにさすがのお師匠さんも己おれには一目いちもく置いているなどと云い触ふらし殊ことに佐助を軽蔑けいべつして彼の代稽古を嫌いお師匠さんの教授でなければ治まらずだんだん増長する様子に春琴も癇癖かんぺきを募つのらせていたところ父親九兵衛が老後の用意に天下茶屋てんがぢゃやの閑静かんせいな場所を選び葛家葺くずやぶきの隠居所いんきょじょを建て十数株の梅うめの古木を庭園に取り込んであったがある年の如月きさらぎにここで梅見の宴うたげを催もよおし、春琴を招いたことがあった。総大将は若旦那の利太郎それに幇間ほうかん芸者等の末社まっしゃが加わり春琴には佐助が附き添って行ったこと云うまでもない佐助はその日利太郎始め末社からちょいちょい杯さかずきをさされるので大いに当惑とうわくした近頃師匠の晩酌の相手をして少しばかり手が上ったけれども余り行ける口でなかったしよそへ行っては師匠の許可がない限り一滴てきといえども飲むことを禁ぜられていたし酔よっては肝腎かんじんの手曳きの役が忽諸こつしょになるから飲む真似をして胡麻化ごまかしているのを利太郎が眼敏めざとく見つけ、お師匠はん、お師匠はんのお許しが出な佐助どん飲みやはれしまへん今日は梅見だっしゃないかいな一日位ゆっくりさしたげなはれ佐助どんがへたばったかて手曳きになりたがってる者がそこらに二人や三人いまんねと胴間声どうまごえで絡からんで来るので苦笑いしながらまあまあ少しはようござります余り酔わさんようにしてやって下されと程よくあしらうとさあお許しが出たとばかりにあちらからもこちらからもさすそれでもきっと引き締めて七分通りは盃洗はいせんに飲ました。その日一座に連なった幇間ほうかんも芸者もかねて聞き及んだ高名の女師匠を眼のあたりに見噂うわさに違わぬ姥桜うばざくらの艶姿あですがたと気韻きいんとに驚おどろかぬ者なく口々に褒ほめそやしたというそれは利太郎の胸中を察し歓心を買わんがためのお世辞でもあったであろうが当時三十七歳の春琴は実際よりもたしかに十は若く見え色あくまで白くして襟元えりもとなどは見ている者がぞくぞくと寒気がするように覚えた甲こうの色のつやつやとした小さな手をつつましく膝に置いて俯向うつむき加減にしている盲目の※(「兵」の「丘」に代えて「白」、第3水準1-14-51)かおのあでやかさは一座の瞳ひとみをことごとく惹ひき寄よせて恍惚こうこつたらしめたのであった。滑稽こっけいなことは皆みなが庭園へ出て逍遥しょうようした時佐助は春琴を梅花の間に導いてそろりそろり歩かせながら「ほれ、ここにも梅がござります」と一々老木の前に立ち止まり手を把とって幹みきを撫なでさせたおよそ盲人は触覚しょっかくをもって物の存在を確かめなければ得心しないものであるから、花木の眺ながめを賞するにもそんな風にする習慣がついていたのであるが、春琴の繊手せんしゅが佶屈きっくつした老梅の幹をしきりに撫なで廻す様子を見るや「ああ梅の樹きが羨うらやましい」と一幇間が奇声きせいを発したすると今一人の幇間が春琴の前に立ち塞ふさがり「わたい梅の樹だっせ」と道化どうけた恰好かっこうをして疎影横斜そえいおうしゃの態ていを為なしたので一同がどっと笑い崩くずれた。これらは一種の愛嬌であって春琴を讃たたえる意味にこそなれ侮あなどる心ではなかったけれども遊里の悪洒落わるじゃれに馴なれない春琴は余りよい気持がしなかったいつも眼明きと同等に待遇たいぐうされることを欲し差別されるのを嫌ったのでこう云う冗談は何よりも癇かんに触った。やがて夜に入り座敷ざしきを変えて再び宴を開いた時佐助どんあんたも疲つかれはったやろお師匠はんはわいが預かる、あっちに支度したくしたあるさかい一杯やって来とくなはれと云われるままに、無闇むやみに酒を強いられぬうち腹を拵こしらえて置くに如しかずと佐助は別室へ引き退って先に夕飯の馳走ちそうを受けたが御飯ごはんを戴いただきますというのを銚子ちょうしを持った老妓ろうぎの一人がべったり着き切りでまあお一つまあお一つと重ねさせるお蔭で思いの外ほか時間を潰つぶしたが食事を済ませてもしばらく呼びに来ないのでそこに控えていた間に座敷ざしきの方でどういう事があったのか、佐助を呼んで下されと云うのを無理に遮さえぎり手水ちょうずならばわいが附いて行ったげると廊下ろうかへ連れて出て手を握にぎったか何かであろう、いえいえやはり佐助を呼んで下されと強情に手を振ふり払はらってそのまま立ちすくんでいる所へ佐助が駈かけ付け、顔色でそれと察した。しかし結局こんな事から出入りをしなくなってくれたらいい塩梅あんばいだと思っていたのに色男を台無しにされては素直にあきらめきれなかったものかまた明くる日からずうずうしくも平気で稽古にやって来たのでそれならば本気で叩たたき込こんでやる真剣の修業に堪たえるなら堪えてみよとにわかに態度を改めてピシピシと教えた。そうなると利太郎は面喰めんくらって毎日三斗との汗を流しふうふう云い出した元来が自分免許の芸でおだてられているうちはよいが意地悪く突つっ込こまれたらアラだらけであるそこへ無遠慮ぶえんりょな怒罵どばが飛ぶから稽古に事寄せて隙すきもあらばと云うようなだらけた心では辛抱しんぼうしきれず次第に横着になりいくら熱心に教えてもわざと気のない弾き方をするついに春琴は「阿呆あほう」と云いさま撥ばちをもって打ぶった弾みに眉間みけんの皮を破ったので利太郎は「あ痛」と悲鳴を挙げたが、額からぽたぽた滴こぼれる血を押おし拭ぬぐい「覚えてなはれ」と捨台辞すてぜりふを残して憤然ふんぜんと座を立ちそれきり姿を見せなかった

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一説に春琴に危害を加えた者は北の新地辺に住む某ぼう少女の父親ではなかったかというこの少女は芸者の下地したじッ子であったからみっちり仕込んでもらう積りで稽古の辛つらさを怺こらえつつ春琴の門に通っていたところある日撥で頭を打たれ泣いて家へ逃にげ帰ったその傷痕きずあとが生はえ際ぎわに残ったので当人よりも親父おやじがカンカンに腹を立てて捻ねじ込こんだ多分養父ではない実父だったのであろう何ぼ修行だからと云って年歯も行かぬ女の子を苛さいなむにも程がある、売り物の顔に疵きずをつけられこのままでは済まされないどうしてくれると大分過激かげきな言辞を使ったので持ち前の聴かぬ気を出し妾の所は躾しつけが厳きびしいので通っているそのくらいなら何で稽古に寄越よこしなさったのかと逆捻さかねじ的の挨拶あいさつをしたすると親父も負けてはいず打つのも殴なぐるのもよいが眼の見えぬお人のすることは危険だどこへどんな怪我けがをさせるかも知れぬ盲人は盲人らしく殊勝しゅしょうにせよと、出様によっては暴力にも訴うったえかねまじき気味合なので佐助が割って這入はいりようようその場を預かって帰した春琴は真まっ青さおになって慄ふるえ上り沈黙ちんもくしてしまったが最後まで謝罪の言葉を吐はかなかったこの父親が娘の器量を損ぜられた仕返しに春琴の容貌ようぼうに悪戯いたずらを加えたという。しかし生はえ際ぎわと云っても額の真中か耳のうしろかどこかにちょっぴり痕あとが附いたぐらいを根に持って一生相好そうごうが変るほどの凄すさまじい危害を与えたと云うのは我が子いとしさに取り上気のぼせた親心にしても余り復讐ふくしゅうが執拗しつように過ぎる第一相手は盲人であるから美貌を醜貌しゅうぼうに変ぜしめても当人にはそれほど打撃にはならないもし春琴のみを目的とするなら他にもっと痛快な方法もあろう。察する所復讐者ふくしゅうしゃの意図は春琴を苦しめるに止とどまらず春琴以上に佐助を悲嘆ひたんせしめようとしたのではないかそれはまた結果において最も春琴を苦しめることになるのであるかく考えれば前掲ぜんけいの少女の父親よりも利太郎を疑う方が順当のように思われるがいかに。利太郎の横恋慕よこれんぼにどの程度の熱意があったか知るべくもないが若年の頃は誰しも年下の女より年増としま女の美に憧あこがれる恐らく極道の果てのああでもないこうでもないが昂こうじたあげく盲目の美女に蠱惑こわくを感じたのであろう最初は一時の物好きで手を出したとしても肘鉄砲ひじでっぽうを食わされた上に男の眉間まで割られれば随分性悪しょうわるな意趣晴らしをしないものでもない。だが何分にも敵の多い春琴であったからまだこの外ほかにもどんな人間がどんな理由で恨うらみを抱いだいていたかも知れず一概いちがいに利太郎であるとは断定し難いまた必ずしも痴情ちじょうの沙汰さたではなかったかも知れない金銭上の問題にしても、前に挙げた貧しい盲人の弟子のような残酷ざんこくな目に遭あった者は一人や二人ではなかったというまた利太郎ほど厚かましくはないにしても佐助を嫉妬していた者は何人もあったという佐助が一種奇妙な位置にある「手曳き」であったことは長い間には隠かくし切れず門弟中に知れ渡っていたから、春琴に思いを寄せる者は私ひそかに佐助の幸福を羨うらやみある場合には彼のまめまめしい奉公振りに反感を抱いていたのである。正式の夫であるならあるいはせめて情夫としての待遇たいぐうを受けているなら文句の出どころはなかったけれども表面はどこまでも手曳きであり奉公人であり按摩から三介さんすけの役まで勤めて春琴の身の周りの事は一切取りしきり忠実一方の人間らしく振舞ふるまっているのを見ては、裏面りめんの消息を解する者には片腹痛く思えたでもあろうああ云う手曳きならちっとやそっと辛いことがあっても己おれだって勤める感心するには当らぬと嘲あざける者も少くなかった。されば佐助に憎しみをかけ春琴の美貌が一朝いっちょう恐ろしい変化を来たしたらあいつがどんな面つらをするかそれでも神妙にあの世話の焼ける奉公を仕遂しとげるだろうかそれが見物みものだと云う全くの敵本主義からでも決行しないとは限らない。要するに臆説おくせつ紛々ふんぷんとしていずれが真相やら判定し難いがここに全然意外な方面に疑いをかけようとする有力な一説があって曰く、恐らく加害者は門弟ではあるまい春琴の商売敵である某検校か某女師匠であろうと。別に証拠はないけれどもあるいはこれが最も穿うがった観察であるかも知れないけだし春琴が居常傲岸ごうがんにして芸道にかけては自ら第一人者をもって任じ世間もそれを認める傾向があったことは同業の師匠連の自尊心を傷きずつけ時には脅威きょういともなったであろう検校と云えば昔は京都より盲人の男子に下される一つの立派な「位」であって特別の衣服と乗物を許され尋常じんじょう芸人の輩やからとは世間の待遇たいぐうも違っていたのに、そう云う人が春琴の技に及ばないと云う噂を立てられては盲人であるだけに根強い意趣を含んだでもあろうし何とかして彼女の技術と評判とを葬ほうむり去る陰険な手段をも考えたであろうよく芸の上の嫉妬から水銀を飲ましたと云う例を聞くが春琴の場合は声楽と器楽と両方であったから彼女の見え坊と器量自慢とに附け込み再び公衆の面前へ出られぬように相を変えさせたと云うのである。もし加害者が某検校にあらずして某女師匠であったとすれば器量自慢までが面憎つらにくかったに違いないから彼女の美貌を破壊はかいし去ることに一層の快味を覚えたであろう。かく色々と疑い得らるる原因を数えて来れば早晩春琴に必ず誰かが手を下さなければ済まない状態にあったことを察すべく彼女は不知不識しらずしらずの裡うちに禍わざわいの種を八方へ蒔まいていたのである。

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前記天下茶屋の梅見の宴の後約一箇月半を経た三月晦日つごもりの夜八つ半時頃すなわち午前三時々分に「佐助は春琴の苦吟くぎんする声に驚き眼覚めて次の間より馳はせ付つけ、急ぎ燈火を点じて見れば、何者か雨戸を抉こじ開け春琴が伏ふしど戸に忍入しのびいりしに、早くも佐助が起き出でたるけはいを察し、一物いちもつをも得ずして逃げ失うせぬと覚しく、すでに四辺に人影ひとかげもなかりき。この時賊ぞくは周章しゅうしょうの余り、有り合わせたる鉄瓶てつびんを春琴の頭上に投げ付けて去りしかば、雪を欺あざむく豊頬ほうきょうに熱湯の余沫よまつ飛び散りて口惜くちおしくも一点火傷やけどの痕あとを留とどめぬ。素もとより白璧はくへきの微瑕びかに過ぎずして昔ながらの花顔玉容は依然として変らざりしかども、それより以後春琴は我が面上の些細ささいなる傷を恥ずること甚しく、常に縮緬ちりめんの頭巾ずきんをもって顔を覆おおい、終日一室に籠居ろうきょしてかつて人前に出でざりしかば、親しき親族門弟といえどもその相貌を窺うかがい知り難く、為ために種々なる風聞臆説おくせつを生むに至りぬ」と云うのが春琴伝の記載である。伝は続けて曰く「けだし負傷は軽微けいびにして天稟てんぴんの美貌をほとんど損ずることなかりき。その人に面接するを厭いといたるは彼女が潔癖けっぺきの致すところにして、取るにも足らぬ傷痕を恥辱ちじょくのごとく考えしは盲人の思い過しとや云わん」と。更さらにまた曰く「しかるにいかなる因縁いんねんにや、それより数十日を経て佐助もまた白内障を煩わずらい、たちまち両眼暗黒となりぬ。佐助は我が眼前朦朧もうろうとして物の形の次第しだいに見え分かずなり行きし時、俄盲目にわかめくらの怪あやしげなる足取りにて春琴の前に至り、狂喜きょうきして叫さけんで曰く、師よ、佐助は失明致いたしたり、もはや一生お師匠様のお顔の瑕きずを見ずに済むなり、まことによき時に盲目となり候そうろうものかな、これ必ず天意にて侍はべらんと。春琴これを聴きて憮然ぶぜんたることやや久し矣」と。佐助が衷情ちゅうじょうを思いやれば事の真相を発あばくのに忍しのびないけれどもこの前後の伝の叙述じょじゅつは故意に曲筆しているものと見る外ほかはない彼が偶然白内障になったと云うのも腑ふに落ちないしまた春琴がいかに潔癖でありいかに盲人の思い過しであろうとも天稟の美貌を損じなかった程度の火傷であるならば何をもって頭巾で面体を包んだり人に接するのを厭ったりしようぞ事実は花顔玉容に無残な変化を来したのである。鴫沢しぎさわてる女その他二三の人の話によると賊ぞくはあらかじめ台所に忍しのび込こんで火を起し湯を沸わかした後、その鉄瓶を提さげて伏戸に闖入ちんにゅうし鉄瓶の口を春琴の頭の上に傾かたむけて真正面まともに熱湯を注ぎかけたのであると云う最初からそれが目的だったので普通の物盗ものとりでもなければ狼狽ろうばいの余りの所為しょいでもないその夜春琴は全く気を失い、翌朝に至って正気付いたが焼け爛ただれた皮膚ひふが乾かわき切るまでに二箇月にかげつ以上を要したなかなかの重傷だったのである。されば物凄ものすごい相貌の変り方について種々奇怪きかいなる噂が立ち毛髪もうはつが剥落はくらくして左半分が禿はげ頭になっていたと云うような風聞も根のない臆説おくせつとのみ排はいし去る訳わけには行かない佐助はそれ以来失明したから見ずに済んだでもあろうけれども、「親しき親族門弟といえどもその相貌を窺うかがい知り難がた」かったと云うのはいかがであろうか絶対に何人なんぴとにも見せないようにすることは不可能であろうし現に鴫沢てる女のごときも見ていないはずはないのである。ただしてる女も佐助の志を重んじ決して春琴の容貌の秘密を人に語らない私も一往いちおうは尋たずねてみたが佐助さんはお師匠様を始終美しい器量のお方じゃと思い込んでいやはりましたので私もそう思うようにしておりましたと云い委くわしくは教えてくれなかった

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佐助は春琴の死後十余年を経た後に彼が失明した時のいきさつを側近者に語ったことがありそれによって詳細しょうさいな当時の事情がようやく判明するに至った。すなわち春琴が兇漢きょうかんに襲おそわれた夜佐助はいつものように春琴の閨ねやの次の間に眠ねむっていたが物音を聞いて眼を覚ますと有明行燈ありあけあんどんの灯が消えてい真まっ暗くらな中に呻うめきごえがする佐助は驚いて跳とび起きまず灯をともしてその行燈あんどんを提げたまま屏風びょうぶの向うに敷しいてある春琴の寝床ねどこの方へ行ったそしてぼんやりした行燈の灯影ほかげが屏風の金地に反射する覚束おぼつかない明りの中で部屋の様子を見廻したけれども何も取り散らした形跡けいせきはなかったただ春琴の枕元まくらもとに鉄瓶が捨ててあり、春琴も褥中じょくちゅうにあって静かに仰臥ぎょうがしていたがなぜか※(「口+云」、第3水準1-14-87)々うんうんと呻うなっている佐助は最初春琴が夢ゆめに魘うなされているのだと思いお師匠さまどうなされましたお師匠さまと枕元へ寄って揺ゆり起そうとした時我知らずあと叫んで両眼を蔽おおうた佐助々々わては浅あさましい姿にされたぞわての顔を見んとおいてと春琴もまた苦しい息の下から云い身悶みもだえしつつ夢中で両手を動かし顔を隠かくそうとする様子にご安心なされませお※(「兵」の「丘」に代えて「白」、第3水準1-14-51)かおは見は致しませぬこの通り眼をつぶっておりますと行燈の灯を遠のけるとそれを聞いて気が弛ゆるんだものかそのまま人事不省じんじふせいになった。その後も始終誰にもわての顔を見せてはならぬきっとこの事は内密にしてと夢ゆめうつつの裡うちに譫語うわごとを云い続け、何のそれほどご案じになることがござりましょう火膨ひぶくれの痕が直りましたらやがて元のお姿に戻られますと慰なぐさめればこれほどの大火傷おおやけどに面体めんていの変らぬはずがあろうかそのような気休めは聞きともないそれより顔を見ぬようにしてと意識が恢復かいふくするにつれて一層いっそう云い募つのり、医者の外ほかには佐助にさえも負傷の状態を示すことを嫌がり膏薬こうやくや繃帯ほうたいを取り替かえる時は皆みな病室を追い立てられた。されば佐助は当夜枕元へ駈け付けた瞬間しゅんかん焼け爛ただれた顔をひと眼見たことは見たけれども正視するに堪たえずしてとっさに面を背そむけたので燈明の灯の揺ゆらめく蔭に何か人間離れのした怪あやしい幻影げんえいを見たかのような印象が残っているに過ぎず、その後は常に繃帯の中から鼻の孔あなと口だけ出しているのを見たばかりであると云う思うに春琴が見られることを怖おそれたごとく佐助も見ることを怖れたのであった彼は病床へ近づくごとに努めて眼を閉じあるいは視線を外そらすようにした故に春琴の相貌がいかなる程度に変化しつつあるかを実際に知らなかったしまた知る機会を自ら避さけた。しかるに養生の効あって負傷も追い追い快方に赴おもむいた頃一日病室に佐助がただ一人侍坐していると佐助お前はこの顔を見たであろうのと突如とつじょ春琴が思い余ったように尋ねたいえいえ見てはならぬと仰っしゃってでござりますものを何でお言葉に違たがいましょうぞと答えるともう近いうちに傷が癒いえたら繃帯を除けねばならぬしお医者様も来ぬようになる、そうしたら余人よじんはともかくお前にだけはこの顔を見られねばならぬと勝気な春琴も意地が挫くじけたかついぞないことに涙なみだを流し繃帯の上からしきりに両眼を押おし拭ぬぐえば佐助も諳然あんぜんとして云うべき言葉なく共に嗚咽おえつするばかりであったがようござります、必ずお顔を見ぬように致しますご安心なさりませと何事か期する所があるように云った。それより数日を過ぎ既すでに春琴も床を離れ起きているようになりいつ繃帯を取とり除のけても差支さしつかえない状態にまで治癒ちゆした時分ある朝早く佐助は女中部屋から下女の使う鏡台と縫針ぬいばりとを密ひそかに持って来て寝床の上に端座たんざし鏡を見ながら我が眼の中へ針を突つき刺さした針を刺したら眼が見えぬようになると云う智識があった訳ではないなるべく苦痛の少い手軽な方法で盲目になろうと思い試みに針をもって左の黒眼を突いてみた黒眼を狙ねらって突き入れるのはむずかしいようだけれども白眼の所は堅かたくて針が這入はいらないが黒眼は柔かい二三度突くと巧うまい工合ぐあいにずぶと二分ほど這入ったと思ったらたちまち眼球が一面に白濁はくだくし視力が失せて行くのが分った出血も発熱もなかった痛みもほとんど感じなかったこれは水晶体すいしょうたいの組織を破ったので外傷性の白内障を起したものと察せられる佐助は次に同じ方法を右の眼に施し瞬時しゅんじにして両眼を潰つぶしたもっとも直後はまだぼんやりと物の形など見えていたのが十日ほどの間に完全に見えなくなったと云う。程経て春琴が起き出でた頃手さぐりしながら奥おくの間に行きお師匠様私はめしいになりました。もう一生涯いっしょうがいお顔を見ることはござりませぬと彼女の前に額ぬかずいて云った。佐助、それはほんとうか、と春琴は一語を発し長い間黙然と沈思ちんししていた佐助はこの世に生れてから後にも先にもこの沈黙の数分間ほど楽しい時を生きたことがなかった昔悪七兵衛景清あくしちびょうえかげきよは頼朝よりともの器量に感じて復讐の念を断じもはや再びこの人の姿を見まいと誓ちかい両眼を抉えぐり取ったと云うそれと動機は異なるけれどもその志の悲壮ひそうなことは同じであるそれにしても春琴が彼に求めたものはかくのごときことであったか過日彼女が涙を流して訴えたのは、私がこんな災難さいなんに遭あった以上お前も盲目になって欲しいと云う意であったかそこまでは忖度そんたくし難いけれども、佐助それはほんとうかと云った短かい一語が佐助の耳には喜びに慄ふるえているように聞えた。そして無言で相対しつつある間に盲人のみが持つ第六感の働きが佐助の官能に芽生えて来てただ感謝の一念より外ほか何物もない春琴の胸の中を自おのずと会得することが出来た今まで肉体の交渉こうしょうはありながら師弟の差別に隔へだてられていた心と心とが始めてひしと抱だき合あい一つに流れて行くのを感じた少年の頃押入おしいれの中の暗黒世界で三味線の稽古をした時の記憶が蘇生よみがえって来たがそれとは全然心持が違ったおよそ大概な盲人は光の方向感だけは持っている故に盲人の視野はほの明るいもので暗黒世界ではないのである佐助は今こそ外界の眼を失った代りに内界の眼が開けたのを知りああこれが本当にお師匠様の住んでいらっしゃる世界なのだこれでようようお師匠様と同じ世界に住むことが出来たと思ったもう衰おとろえた彼の視力では部屋の様子も春琴の姿もはっきり見分けられなかったが繃帯で包んだ顔の所在だけが、ぽうっと仄白ほのじろく網膜もうまくに映じた彼にはそれが繃帯とは思えなかったつい二た月前までのお師匠様の円満微妙な色白の顔が鈍にぶい明りの圏けんの中に来迎仏らいごうぶつのごとく浮うかんだ

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佐助痛くはなかったかと春琴が云ったいいえ痛いことはござりませなんだお師匠様の大難に比べましたらこれしきのことが何でござりましょうあの晩曲者くせものが忍しのび入り辛き目をおさせ申したのを知らずに睡ねむっておりましたのは返す返すも私の不調法毎夜お次の間に寝させて戴いただくのはこう云う時の用心でござりますのにこのような大事を惹ひき起しお師匠様を苦しめて自分が無事でおりましては何としても心が済まず罰ばちが当ってくれたらよいと存じましてなにとぞわたくしにも災難さいなんをお授け下さりませこうしていては申訳もうしわけの道が立ちませぬと御霊様ごりょうさまに祈願きがんをかけ朝夕拝おがんでおりました効があって有難や望みが叶かない今朝けさ起きましたらこの通り両眼が潰つぶれておりました定めし神様も私の志を憐あわれみ願いを聞き届けて下すったのでござりましょうお師匠様お師匠様私にはお師匠様のお変りなされたお姿は見えませぬ今も見えておりますのは三十年来眼の底に沁しみついたあのなつかしいお顔ばかりでござりますなにとぞ今まで通りお心置きのうお側そばに使って下さりませ俄盲目にわかめくらの悲しさには立ち居も儘ままならずご用を勤めますのにもたどたどしゅうござりましょうがせめて御身の周りのお世話だけは人手を借りとうござりませぬと、春琴の顔のありかと思われる仄白ほのじろい円光の射して来る方へ盲しいた眼を向けるとよくも決心してくれました嬉うれしゅう思うぞえ、私は誰の恨うらみを受けてこのような目に遭おうたのか知れぬがほんとうの心を打ち明けるなら今の姿を外ほかの人には見られてもお前にだけは見られとうないそれをようこそ察してくれました。あ、あり難がとうござりますそのお言葉を伺うかがいました嬉しさは両眼を失うたぐらいには換かえられませぬお師匠様や私を悲嘆に暮くれさせ不仕合わせな目に遭あわせようとした奴やつはどこの何者か存じませぬがお師匠様のお顔を変えて私を困らしてやると云うなら私はそれを見ないばかりでござります私さえ目しいになりましたらお師匠様のご災難は無かったのも同然、せっかくの悪企わるだくみも水の泡あわになり定めし其奴そやつは案に相違していることでござりましょうほんに私わたくしは不仕合わせどころかこの上もなく仕合わせでござります卑怯ひきょうな奴の裏うらを掻かき鼻をあかしてやったかと思えば胸がすくようでござります佐助もう何も云やんなと盲人の師弟相擁あいようして泣いた

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禍わざわいを転じて福と化した二人のその後の生活の模様もようを最もよく知っている生存者は鴫沢しぎさわてる女あるのみである照女は本年七十一歳春琴の家に内弟子として住み込んだのは明治七年十二歳の時であった。てる女は佐助に糸竹の道を習う傍かたわら二人の盲人の間を斡旋あっせんして手曳きとも付かぬ一種の連絡係りを勤めたけだし一人は俄にわか盲目一人は幼少からの盲目とは云え箸はしの上げ下おろしにも自分の手を使わず贅沢に馴なれて来た婦人の事故ゆえ是非ぜひともそう云う役目を勤める第三者の介在が必要でありなるべく気の置けない少女を雇やとうことにしていたがてる女が採用されてからは実体じっていなところが気に入られ大いに二人の信任を得てそのまま長く奉公をし、春琴の死後は佐助に仕えて彼が検校の位を得た明治二十三年まで側に置いてもらったと云う。てる女が明治七年に始めて春琴の家へ来た時春琴は既に四十六歳遭難そうなんの後九年の歳月を経もう相当の老婦人であった顔は仔細しさいがあって人には見せないまた見てはならぬと聞かされていたが、紋羽二重もんはぶたえの被布ひふを着て厚い座布団の上に据すわり浅黄鼠あさぎねずの縮緬ちりめんの頭巾ずきんで鼻の一部が見える程度に首を包み頭巾の端が眼瞼まぶたの上へまで垂たれ下るようにし頬ほおや口なども隠かくれるようにしてあった。佐助は眼を突いた時が四十一歳初老に及んでの失明はどんなにか不自由だったであろうがそれでいながら痒かゆい処へ手が届くように春琴を労いたわり少しでも不便な思いをさせまいと努める様は端はたの見る目もいじらしかった春琴もまた余人の世話では気に入らず私の身の周りの事は眼明きでは勤まらない長年の習慣故ゆえ佐助が一番よく知っていると云い衣裳の着附けも入浴も按摩あんまも上厠じょうしもいまだに彼を煩わずらわした。さればてる女の役目と云うのは春琴よりもむしろ佐助の身辺の用を足すことが主で直接春琴の体に触ふれたことはめったになかった食事の世話だけは彼女が居ないとどうにもならなかったけれどもその外ほかはただ入用な品物を持ち運び間接に佐助の奉公を助けた例えば入浴の時などは湯殿の戸口までは二人に附いて行きそこで引き返さがって手が鳴ってから迎むかえに行くともう春琴は湯から上って浴衣を着頭巾を被かぶっているその間の用事は佐助が一人で勤めるのであった盲人の体を盲人が洗ってやるのはどんな風にするものかかつて春琴が指頭をもって老梅ろうばいの幹を撫なでたごとくにしたのであろうが手数の掛かかることは論外であったろう万事がそんな調子だからとてもややこしくて見ていられない、よくまああれでやって行けると思えたが当人たちはそう云う面倒を享楽きょうらくしているもののごとく云わず語らず細やかな愛情が交されていた。按あんずるに視覚を失った相愛の男女が触覚しょっかくの世界を楽しむ程度は到底われ等らの想像を許さぬものがあろうさすれば佐助が献身けんしん的に春琴に仕つかえ春琴がまた怡々いいとしてその奉仕を求め互たがいに倦うむことを知らなかったのも訝あやしむに足りない。しかも佐助は春琴の相手をする余暇よかを割さいて多くの子女を教えていた当時春琴は一室に垂たれ籠こめてのみ暮らすようになり佐助に琴台と云う号を与えて門弟の稽古を全部引き継がせ、音曲指南おんぎょくしなんの看板にも鵙屋春琴の名の傍へ小さく温井ぬくい琴台の名を掲げていたが佐助の忠義と温順とはつとに近隣きんりんの同情を集め春琴時代よりかえって門下が賑にぎわっていた滑稽こっけいな事は佐助が弟子に教えている間春琴は独り奥の間にいて鶯うぐいすの啼く音などに聞き惚ほれていたが、時々佐助の手を借りなければ用の足りない場合が起ると稽古の最中でも佐助々々と呼ぶすると佐助は何を措おいても直すぐ奥の間まへ立って行ったそんな訳わけだから常に春琴の座右を案じて出教授には行かず宅で弟子を取るばかりであった。ここに一言すべきことはその頃道修町の春琴の本家鵙屋の店は次第に家運が傾かたむきかけ、月々の仕送りも途絶えがちになっていたのであるもしそう云う事情がなければ何を好んで佐助は音曲を教えようぞ忙いそがしい合間を見つつ春琴の許もとへ飛んで行った片羽鳥は稽古をつけながらも気が気でなかったであろうし春琴もまた同じ思いになやんだであろう

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師匠の仕事を譲ゆずり受けて痩腕やせうでながら一家の生計を支えて行った佐助はなぜ正式に彼女と結婚しなかったのか春琴の自尊心が今もそれを拒こばんだのであろうかてる女が佐助自身の口から聞いた話に春琴の方は大分気が折れて来たのであったが佐助はそう云う春琴を見るのが悲しかった、哀あわれな女気の毒な女としての春琴を考えることが出来なかったと云う畢竟ひっきょうめしいの佐助は現実に眼を閉じ永劫えいごう不変の観念境へ飛躍ひやくしたのである彼の視野には過去の記憶きおくの世界だけがあるもし春琴が災禍さいかのため性格を変えてしまったとしたらそう云う人間はもう春琴ではない彼はどこまでも過去の驕慢きょうまんな春琴を考えるそうでなければ今も彼が見ているところの美貌びぼうの春琴が破壊はかいされるされば結婚を欲しなかった理由は春琴よりも佐助の方にあったと思われる。佐助は現実の春琴をもって観念の春琴を喚よび起す媒介ばいかいとしたのであるから対等の関係になることを避さけて主従の礼儀を守ったのみならず前よりも一層己おのれを卑下ひげし奉公の誠を尽つくして少しでも早く春琴が不幸を忘れ去り昔の自信を取り戻もどすように努め、今も昔のごとく薄給はっきゅうに甘あまんじ下男同様の粗衣そい粗食を受け収入の全額を挙げて春琴の用に供したその他経済を切り詰めるため奉公人の数を減らし色々の点で節約したけれども彼女の慰安いあんには何一つ遺漏いろうのないようにした故ゆえに盲目になってからの彼の労苦は以前に倍加した。てる女の言によれば当時門弟達は佐助の身なりが余りみすぼらしいのを気の毒がり今少し辺幅へんぷくを整えるように諷ふうする者があったけれども耳にもかけなかったそして今もなお門弟達が彼を「お師匠さん」と呼ぶことを禁じ「佐助さん」と呼べと云いこれには皆みなが閉口してなるべく呼ばずに済まそうと心がけたがてる女だけは役目の都合つごう上そう云う訳に行かず常に春琴を「お師匠様」と呼び佐助を「佐助さん」と呼び習わした。春琴の死後佐助がてる女を唯一ゆいいつの話相手とし折に触れては亡なき師匠の思い出に耽ふけったのもそんな関係があるからである後年彼は検校となり今は誰だれにも憚はばからずお師匠様と呼ばれ琴台先生と云われる身になったがてる女からは佐助さんと呼ばれるのを喜び敬称を用いるのを許さなかったかつててる女に語って云うのに、誰しも眼が潰つぶれることは不仕合わせだと思うであろうが自分は盲目になってからそう云う感情を味わったことがないむしろ反対にこの世が極楽浄土じょうどにでもなったように思われお師匠様とただ二人生きながら蓮はすの台うてなの上に住んでいるような心地がした、それと云うのが眼が潰れると眼あきの時に見えなかったいろいろのものが見えてくるお師匠様のお顔なぞもその美しさが沁々しみじみと見えてきたのは目しいになってからであるその外ほか手足の柔かさ肌はだのつやつやしさお声の綺麗きれいさもほんとうによく分るようになり眼あきの時分にこんなにまでと感じなかったのがどうしてだろうかと不思議に思われた取り分け自分はお師匠様の三味線の妙音を、失明の後に始めて味到みとうしたいつもお師匠様は斯道しどうの天才であられると口では云っていたもののようやくその真価が分り自分の技倆ぎりょうの未熟みじゅくさに比べて余りにも懸隔けんかくがあり過ぎるのに驚き今までそれを悟さとらなかったのは何と云うもったいないことかと自分の愚おろかさが省みられたされば自分は神様から眼あきにしてやると云われてもお断りしたであろうお師匠様も自分も盲目なればこそ眼あきの知らない幸福を味あじわえたのだと。佐助の語るところは彼の主観の説明を出でずどこまで客観と一致するかは疑問だけれども余事はとにかく春琴の技芸は彼女の遭難そうなんを一転機として顕著けんちょな進境を示したのではあるまいか。いかに春琴が音曲おんぎょくの才能に恵まれていても人生の苦味酸味を嘗なめて来なければ芸道の真諦しんたいに悟入ごにゅうすることはむずかしい彼女は従来甘やかされて来た他人に求むるところは酷こくで自分は苦労も屈辱くつじょくも知らなかった誰も彼女の高慢こうまんの鼻を折る者がなかったしかるに天は痛烈つうれつな試練を降くだして生死の巌頭がんとうに彷徨ほうこうせしめ増上慢ぞうじょうまんを打ち砕くだいた。思うに彼女の容貌を襲おそった災禍さいかはいろいろの意味で良薬となり恋愛においても芸術においてもかつて夢想だもしなかった三昧境さんまいきょうのあることを教えたであろうてる女はしばしば春琴が無聊ぶりょうの時を消すために独りで絃を弄もてあそんでいるのを聞いたまたその傍に佐助が恍惚こうこつとして項うなじを垂れ一心に耳を傾けている光景を見たそして多くの弟子共は奥の間から洩もれる精妙せいみょうな撥ばちの音を訝いぶかしみあの三味線には仕掛しかけがしてあるのではないかなどと呟つぶやいたと云う。この時代に春琴は弾絃の技巧ぎこうのみならず作曲の方面にも思いを凝こらし夜中密ひそかにあれかこれかと爪弾つまびきで音を綴つづっていたてる女が覚えているのに「春鶯囀しゅんのうでん」と「六の花」の二曲があり先日聞かしてもらったが独創性に富み作曲家としての天分を窺知きちするに足りる

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春琴は明治十九年六月上旬より病気になったが病む数日前佐助と二人中前栽なかせんざいに降り愛玩あいがんの雲雀ひばりの籠かごを開けて空へ放った照女が見ていると盲人の師弟手を取り合って空を仰あおぎ遥はるかに遠く雲雀の声が落ちて来るのを聞いていた雲雀はしきりに啼きながら高く高く雲間へ這入はいりいつまでたっても降りて来ない余り長いので二人共気を揉もみ一時間以上も待ってみたがついに籠に戻らなかった。春琴はこの時から怏々おうおうとして楽しまず間もなく脚気かっけに罹かかり秋になってから重態に陥おちいり十月十四日心臓麻痺しんぞうまひで長逝ちょうせいした。雲雀の外ほかに第三世の天鼓を飼っていたのが春琴の死後も生きていたが佐助は長く悲しみを忘れず天鼓の啼く音を聞くごとに泣き暇ひまがあれば仏前に香こうを薫くんじてある時は琴をある時は三絃を取り春鶯囀を弾いた。それ緡蛮めんばんたる黄鳥は丘隅きゅうぐうに止るとと云う文句で始まっているこの曲はけだし春琴の代表作で彼女が心魂しんこんを傾かたむけ尽つくしたものであろう詞は短いが非常に複雑な手事てごとが附いている春琴は天鼓の啼く音を聞きながらこの曲の構想を得たのである手事の旋律せんりつは鶯の凍こおれる涙今やとくらんと云う深山みやまの雪の※と[#「さんずい+鬲」、U+6EC6、383-4]けそめる春の始めから、水嵩みずかさの増した渓流けいりゅうのせせらぎ松籟しょうらいの響ひびき東風こちの訪れ野山の霞かすみ梅の薫かおり花の雲さまざまな景色へ人を誘い、谷から谷へ枝から枝へ飛び移って啼く鳥の心を隠約いんやくの裡うちに語っている生前彼女がこれを奏でると天鼓も嬉々ききとして咽喉のどを鳴らし声を絞しぼり絃の音色と技を競った。天鼓はこの曲を聞いて生れ故郷の渓谷を想い広々とした天地の陽光を慕したったのであろうが佐助は春鶯囀を弾きつつどこへ魂を馳はせたであろう触覚の世界を媒介ばいかいとして観念の春琴を視詰みつめることに慣らされた彼は聴覚によってその欠陥けっかんを充みたしたのであろうか。人は記憶を失わぬ限り故人を夢に見ることが出来るが生きている相手を夢でのみ見ていた佐助のような場合にはいつ死別しにわかれたともはっきりした時は指させないかも知れない。ちなみに云う春琴と佐助との間には前記の外に二男一女があり女児は分娩ぶんべん後に死し男児は二人共赤子の時に河内かわちの農家へ貰もらわれたが春琴の死後も遺わすれ形見には未練がないらしく取り戻そうともしなかったし子供も盲人の実父の許もとへ帰るのを嫌きらった。かくて佐助は晩年に及び嗣子ししも妻妾さいしょうもなく門弟達に看護されつつ明治四十年十月十四日光誉春琴恵照禅定尼の祥月命日しょうつきめいにちに八十三歳と云う高齢こうれいで死んだ察する所二十一年も孤独で生きていた間に在りし日の春琴とは全く違った春琴を作り上げいよいよ鮮あざやかにその姿を見ていたであろう佐助が自ら眼を突いた話を天竜寺てんりゅうじの峩山和尚がさんおしょうが聞いて、転瞬てんしゅんの間に内外ないげを断じ醜を美に回した禅機を賞し達人の所為しょいに庶幾ちかしと云ったと云うが読者諸賢しょけんは首肯しゅこうせらるるや否や