一 序言
昔の人は「人は神とお金の両方に仕えることはできない」と言いました。だから、命のために何を食べようか、何を飲もうか、また体のために何を着ようかと心配する必要はありません。命は食べ物よりも大切であり、身体は衣服よりも尊いものです。では、「美的生活とは何か」と問われたなら、私はこう答えます。「それは、食べ物や衣服よりも価値ある命と体に仕える生き方です」と。
二 道徳的判断の価値
道徳とは「最高の善」を思い描くことから始まります。この「最高の善」とは、人間の行為の最終的な目的として理想とされる考えです。これを実現するのに役立つ行為を「善」と呼び、妨げる行為を「悪」と呼びます。この「最高善」の中身については学者によって意見が分かれますが、「道徳的判断はこの最高善を基盤としている」という点では、昔から変わりません。だからあらゆる道徳には、少なくとも二つの条件が必要です:
1. 最高善を意識していること
2. その善に基づいて行動し、その目的にかなっていることもし心に善を思っていても行動が伴わなかったり、逆に行動が善であっても心に善を思っていなかったとしたら、その行為は完全な道徳的価値を持つとは言えません。こう考えると、私たちはある疑問にぶつかります。たとえば昔の忠義の臣や義士、孝行の子や貞節な妻は、国や親、夫のために命を捧げたとき、本当に「最高善」の意識を持っていたのでしょうか?それとも「忠義」や「孝行」といった抽象的な道徳を信じて従ったのでしょうか?楠木正成が湊川で戦死したとき、彼に「最高善」の意識などあったでしょうか?ただ主君の恩に感激して、命を投げ出しただけではないでしょうか。その死は、彼自身にとっての最高の満足だったのです。それを語れるのは倫理学ではなく、彼の心そのものでしょう。菅原道真が太宰府に流された際、主君からの衣を拝んだという逸話も、義務としてではなく、ただそのようにすることで満たされる心があったからにすぎません。戦国の武士たちが義に殉じる行為も、目的とか手段とかを超えて、心のままに行っただけなのです。鳥が鳴くように、水が流れるように、自然に美しさを表したものであり、意識的な「善」ではありません。彼らの行為は、赤ん坊が母を慕うような本能によるものです。だからこそ、彼らの行為は道徳的価値に欠けているとさえ言わざるを得ません。道徳的な行為とは、本来「意識」や「努力」が必要なものだからです。彼らの行為は、無意識で自然なものであって、道徳の分析の外にあるものです。すると私たちは、道徳というものの価値が意外と小さいことに気づかざるを得ません。たとえ倫理学が楠公の行為を「道徳的でない」としても、それが彼の価値を損なうでしょうか?忠臣義士、孝子烈婦は、倫理学の評価などに関係なく、今なお美しく尊い存在です。結局、「善」や「不善」といった言葉も、人間の知識にすぎず、人生の本当の価値とはあまり関係がないのではないでしょうか。この見方に立つと、人生そのものが全く違った姿を見せてきます。これこそが、私たちが美的生活を重視しようとする理由なのです。どうかしばらく、私たちの考えに耳を傾けていただきたい。
三 人間の最大の幸福
私たちがこの世に生まれた理由は分かりませんが、生まれたからには「幸せになること」が目的であるのは明らかです。では、その「幸せ」とは何か。それは本能の満足、これに尽きます。人間の本能とは、自然に湧き上がる欲求のことです。これを満たすことが「美的生活」なのです。道徳や理性は、人間を動物と区別する特徴ですが、実際に私たちに最も大きな幸福を与えてくれるのは、それらではなく「本能」です。私たちの中に「知りたい」という欲があり、善を求める気持ちもあります。それらを満たすときにも喜びはありますが、それは淡くて力が弱いものです。それでは、人間の本当の欲求を満たすには不十分です。高尚なことを称賛する言葉は多くありますが、それは偽善にすぎないことが多いのです。哲学書を読み終えて快感を覚えるよりも、一日の疲れのあとに風と月を眺めながらお酒を飲む方が、ずっと深い満足があるでしょう。貧しい人を助けるのも素晴らしいですが、愛する人とともに音楽に酔うときの喜びには及びません。勉強や善行に命をかける例もありますが、恋愛の前では人生の価値さえ軽く思えるのではないでしょうか。本能を抑えて生きることを「人間らしさ」と称賛する社会では、本当の幸せが見失われてしまいます。私たちをそうさせてしまったのは、まさに「道徳」と「知識」なのです。それが本当に役に立っているのでしょうか?
四 道徳と知識の相対的な価値
道徳や知識には、それ自体に絶対的な価値があるわけではありません。その役割は、私たちの本能をうまくコントロールし、それを長く満たすことにあります。動物は本能のままに生きているため、しばしば災難に見舞われ、満足も長くは続きません。しかし人間は、理性と道徳の力で、本能をより長く安定して満たすことができるのです。つまり、知識と道徳は、あくまでも「本能のための手段」であり、主役ではありません。道徳そのものは幸福をもたらすわけではないのです。本当に善いこととは、自然にできることでなければならず、努力を必要とするような道徳は、むしろ不自然です。本来の道徳とは、赤ん坊が母を慕うような、自然な動きでなければならないのです。それを無理に意識した瞬間、それはもはや「道徳」とは呼べません。また、本能が現在の私たちにとって自然であるのは、過去の祖先たちが苦しみながらそれを育んでくれたからです。その遺産は、机上の道徳よりもずっと尊いものであり、私たちはそれに感謝し、それを受け継ぎ続けるべきです。そして、そのための生き方こそが「美的生活」なのです。
五 美的生活の絶対的価値
美的生活は、人間の自然な欲求を満たすものだから、それ自体に絶対的な価値があります。理性や道徳、そして知識は、状況によって変わる相対的なものにすぎません。一方、美的生活は、何ものにも依らず、安らぎや平和、力を内に秘めた生き方です。知識や道徳は、あくまでこの美的生活を助ける「手段」にすぎません。それを主役にしてしまうのは、本末転倒です。
六 美的生活の事例
これまで述べたように、「絶対的な価値をもつもの」が美的であり、その最も純粋な形が「本能の満足」です。ただし、それ以外のことでも、もし絶対的な価値があると感じられるなら、それもまた美的なものとして認められます。このようにして、美的生活は「本能の満足」以外にも広がっていきます。たとえば、本来は道徳は相対的な価値を持つものです。しかし、ある人が「道徳そのものが絶対的に価値あるもの」と信じ、道徳を実践することを人生の目的とするならば、それはもはや道徳的というよりも、美的な態度と言えます。昔の忠臣や義士、孝行な子、貞節な妻たちの行為も、道徳の名で語られているとはいえ、実際は美的な行為だったのです。彼らは、まるで鳥が巣に帰るように自然にその道を選びました。そこには「目的」や「手段」といった理屈は存在しませんでした。また、真理そのものの探究に没頭し、「なぜ真理を探すのか」という問いすら忘れてしまった人もいます。彼らはもはや知識の世界を超えて、美的生活の中に生きている人です。お金を貯めることに生きがいを感じる「守銭奴」も、たとえ愚かに見えても、彼にとってお金は「安心」であり「幸福」です。他人がどう思おうと、彼の心の中には確かな満足があります。それもまた一つの美的生活と言えます。恋愛もまた、美的生活の中で最も美しいものの一つです。バラの咲く垣根のかげや、月明かりの海辺で、手を取り合って愛を語る若者たち。彼らの姿を、愚かだと笑ってはいけません。それは誰もが羨むべき姿なのです。もし運命が彼らを引き離そうとしたとき、互いに命をかけて殉じるような恋愛もあります。それに勝る喜びや尊さが他にあるでしょうか?道徳の立場からは「若気の至り」と言われるかもしれませんが、彼らにとってそれは人生のすべてなのです。昔のインドのヨーガ行者たちは、苦行を通して「解脱」という無上の喜びを得ようとしました。フランスのトラピスト修道士たちも、沈黙と禁欲に生きながら、誰よりも平和と満足を得ていました。世俗の人から見れば、彼らは奇異に見えるかもしれませんが、彼らの内面には王様すら羨むような心の安らぎがあります。
詩人や芸術家もまた、自分の理想に命を懸けて生きています。そのために乞食になったり、祖国を追放されたり、処刑される者さえいます。しかし彼らにとっては、死すら惜しくないほどの価値が芸術にあるのです。このような例が、美的生活のほんの一部です。お金や権力だけが人を豊かにするのではありません。自分の心の中に「王国」を持っている人こそ、美的生活を語るにふさわしいのです。
七 時弊および結論
ここまで述べてきた私の言葉は、少し極端に聞こえたかもしれません。ですが、読者の皆さん。時代のひずみに対して怒っている者の言葉は、自然とこうなってしまうのです。いまの世の中で何が「悪しき傾向(時弊)」か、数え上げればきりがありません。いわゆる道徳の先生たちが言うことを聞いてみてください。彼らは、人間が作った道徳の枠組みで、人間本来の自然な生き方を縛ろうとしているのです。本来、状況に応じて変わるべき道徳を、絶対的な価値として押し付けています。彼らは朝から晩まで「義務を果たせ、権利を守れ」と叫んでいます。でも彼らの言う「義務」は、借りた物を返すこと。「権利」とは、貸した物を取り返すことにすぎません。人生は本来、そんな「貸し借り」の次元を超えているはずです。また、学問の先生たちが教えることも、私たちの生活とはほとんど関係がないような遠い話ばかりです。宇宙とは、突き詰めれば「疑問の積み重ね」です。もしすべての疑問が解決されない限り私たちが安心できないとするなら、いっそ生きない方がマシかもしれません。野の鳥を見てください。働かず、糸も紡がずとも、自由に舞い、気ままに歌っています。道徳と知識は、たしかに人間ならではの特徴ですが、私たちの本能を満たすための「道具」にすぎません。そのためにどれだけ煩雑で遠回りな努力をしなければならないかと思うと、それだけでうんざりします。人はしばしば見栄を張りますが、動物の本能を恥じる一方で、羨ましさを理解しません。虚飾の道徳や知識にしがみつき、最後には人生の目的さえ分からなくなるのです。気づけば短い人生の半分以上を、忙しさと疲労のうちに終えてしまう。このような時代にあって、本来の幸福を見つけるには、道徳も知識もあまりにも不便で回りくどすぎます。本当に世の中をよくしようとするなら、まず道徳や学問の専門家たち自身が、自分たちの態度を根本から変えるべきなのです。ああ、本当に哀れなのは「パンのない人」ではなく、「パン以外の糧」を知らない人なのです。人間本来の欲求が満たされているなら、乞食の生活にも、王様が羨むほどの幸せがある。そして、本当の悲しみとは、貧しさそのものではなく、富以外の価値を知らない心の貧しさです。恋愛の喜びを知らずに死んでいくような人生には、大きな価値があるとは私は思えません。生命の本質を忘れて、食や服のことばかり気にする人は、自分が何のために生まれてきたのかも分かっていないのです。今の世の中は、日々ますます忙しくなり、人は立ち止まって考える余裕さえありません。でも、貧しい人よ、どうか心配しないでください。望みを失った人よ、どうか悲しまないでください。あなたの胸の中には、いつだって「王国」があります。そして、それをあなたに教えてくれるのが、「美的生活」なのです。